21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

J.M.クッツェー『遅い男』

最近わたしはそう思い直しているよ。気のひとつも動転することが、もっとあっていい。眦決して鏡を覗いてみるべきだよ。そこに映るものに嫌気がさすとしても。時間による荒廃ぶりを言っているんじゃない。ガラスのむこうに閉じこめられた生き物のことを言っているんだ、その視線をわれわれはいつも慎重に避けているだろう。"おのれの身を思わば、自分とともに食べ、ともに夜を過ごし、わたしに代わって『わたし』と言うこの生き物を見よ!" わたしを不安定と感じるなら、マリアナ、それはたんに事故のせいではない。『わたし』だという他人がときどき鏡を通じてあらわれて、わたしのなかで話しだすからだ。わたしを通して。今夜も。今も。愛を語ったりする」(第二十六章)

 舞台はオーストラリアの町、アデレード。小説の一行目から、車にはねられて片脚を失った、フランス系移民のポールは、介護士クロアチア人、マリアナに恋をする。しかし、ふたまわりほども違う人妻への欲望に身を焦がすポールのもとへ、「作者」エリザベス・コステロが登場してから、事態は黒いコメディの様相を示す。コステロは、ポールの目を水溶き小麦粉でふさぎ、頭にストッキングをかぶせて、コールガール(?)とセックスさせたり、ポールと皮肉な漫才を続けたりする。
 一読しての感想は、クッツェーもついにスベリ芸の領域に踏み込んだか、というものだった。読者の「共感」を排除し、上滑りさせ、主人公の熱意がありえないほどの「冗談」に落としこまれる、という意味で、この作品はカズオ・イシグロミラン・クンデラの系譜に連なっている。あげくの果てには、「作者」が作者面して舞台に上がってくる、という段階になると、ほとんど漫☆画太郎先生の、「私は作者(かみ)だ」みたいな事態におちいる。
 思えば『恥辱』も出だしかなりスベリ芸っぽかったのだけれど、南アフリカという舞台と、フランツ・カフカへの連想がそうはさせなかった。そう考えると、オーストラリア、「メタ・フィクション」という道具立てが、スベリ芸の実現をゆるした、とも言えなくはない。ところで、むろん私はこの「スベリ芸」という単語を悪い意味では使っておらず、読者と作中人物が手を取りあって涙を流すような気味の悪い状況を、リアリズムの設定のうちで巧妙に避ける高等技術だと思っている。してみると、この作品は、「作者と作中人物も手を取りあっているわけではありません」、というエクスキューズなのかも知れない。(山田太郎に石を投げられる「作者(かみ)」のように。)
 もうひとつ、この作品における「スベリ芸」の効能を挙げるなら、作中人物さらに作者までもがリアリズムの領域にとどまることによって、抽象的な議論が現実に理解可能な範囲にとどまるというのがある。ここでのわれわれは「メメクラゲ」について昼夜議論を続ける必要はなく、ただ、「オリジナルってなんですか?」というマリアナの発言にはっとすればいい。ある意味、現代において「イデオロギー/イデアの声」が聞こえる唯一の瞬間であるかも知れない。

(『遅い男』 鴻巣友季子訳 早川書房 2011年<原著2005年>)