21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

佐野眞一『巨怪伝』第十一章「国士と電影」

 最近、夕食を食べながら、古いNHK大河ドラマを眺めているのだが、ひょっとすると戦争というのはたいがい電撃戦で、平和ボケしている人々を突然の嵐のように何者かが襲うところからはじまるのではないか。子供のころから「信長の野望」に毒されて、陣取りゲームとしてしか捉えられない私のような世代はもとより、歴史小説世代にしても、「徳川家康関ヶ原に向かっているそのころ、真田幸村は」、というような、悪名たかいmeanwhileでしか世界を捉えられない・・・、などと書こうと思っていたのだが、今日の夕食時に中井貴一若尾文子に、「年に2回も戦をするなんて、お前は何を考えているのか」と怒られていたので、のっけからずっこけているのはお許しください。
 さて、本題は『巨怪伝』である。「新聞の生命はエロテスクとグロチック」と言う正力をみていると、思わず、「カリスマとは99パーセントの野心と、1パーセントの天然である」、というような妄言が浮かんでしまうのだが、それはさておきこの本を読んで感じるのは昭和という時代の緊張感である。警視庁時代、投石で頭を割られて血を流しながら暴徒を鎮圧した、というエピソードはもとより、収賄のスクープ記事を載せた新聞の経営者が暗殺され、正力自身も新聞拡販競争の激化に絡んで日本刀で襲われる。どうかんがえても、いまのモスクワのほうが100倍も平和である。
 第十一章は日本テレビの設立にまつわる章だが、この章で、朝日と毎日に資金を出させながら、約束を反古にする読売の姿のみならず、テレビへの出資をダシに、米フィリップス社とのコネクションを作り上げておいて、出資はとりやめたにした松下幸之助がどうしても頭に残る。まるで狸と狐の化かしあいだが、日本経済回復させたい、などというものの、やはり「信長の野望」に毒された脳では新興国に勝てないのではないか、と思った風景だった。

(『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀』 文春文庫 2000年)