21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

『伊藤計劃記録 第弐位相』

本田美奈子の死と、宇宙戦争という映画は、ぼくのからだに起きた理不尽なできごとを経由して繋がっている。あなたは、体と心中するしかない。叙事的な映画というのは、そういうことを嫌でも感じさせてくれる。(11-10, 2005)

 前巻の(、というべきか)『伊藤計劃記録』を読み終えたのは、昨年のこれくらいの時期であったと記憶している。そのときにもずいぶんと励まされ、「ああ、おなじ映画や小説を、嘗めるように鑑賞する人間になろう」、と決意したものだが、世の中思い通りにはいかないもので、昨年はそうはならなかった。だが、今年もおなじことを思っている。
 伊藤計劃の文章の魅力というのは、ウエットにならない範囲で、プリミティヴな問題意識、つまり死や生や未来ということが、なまなましく提出されていることにあるだろう。また、モノを嘗めるように見て、あくまでその背景思想をじっくりと考えていくスタンス。そして、自分の「好き嫌い」ということに関する明確な意思(全体主義フェチだとか)、くわえて、一つ一つの言葉づかいに固執することによる、紋切型の徹底した排除もすごく共感できる。考えてみれば、ものを書くうえで、あるいは観るうえで、あたりまえのことを徹底してやっているだけなのだが、それがこれだけ人を励ます文章を生みだすということ。それが、どうしても「励まされる」という紋切型の台詞を使いたくなる由縁である。

映画とは、そこにただある映像に過ぎません。
そこから何を持って帰るかは、われわれに任されています。逆に言えば、映画を観て得られるものは、その本人の感性や知性のレベルに見合ったものでしかない、ということです。
(02-11,2006)

(『伊藤計劃記録 第弐位相』 早川書房