21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

古井由吉『始まりの言葉』 「二〇世紀の岬を回り」

しかし探検の航海であるからには、仮りに幻想はもはやなくても希望は希望の、欲望は欲望の、もはや自動的(オートマティック)なものに化しても意志は意志の、冷たく凝固した顔なのだろう。大航海時代の冒険精神と人は取る。その背後にはしかし科学精神の展開がある。そのまた背後には時間と空間についての思考の、前代に比べて徹底した、抽象化および数値化がある。さらにまたその準備には、神のみを存在として余のすべてはひとしく、本来無差異にして無限の現象と見なす、信仰の過激化があっただろう。つまり、西洋近代である。(004-005ページ)

 あくまで私の見方に過ぎないかも知れない、という逡巡はひとまず措くとして、古井由吉という作家は、時間をどのように切りとるか、ということにつねに腐心しているひとだ。そのひとが、ステファヌ・マラルメヴァスコ・ダ・ガマ喜望峰回航四百周年に寄せた詩をかわきりに、20世紀の年表をつくってみたのだと言える。四百周年とかさなるマラルメの没年(1898年)が、56年前の生年と対比され、さらには明治で三十一年と置き換えられてとているように、年表というものは不思議な力学にもとづくものだ。たしかに人間ひとりの生が、まったく無作為にえらびだされたように見える、時間軸上のふたつの点をつなぐことは了承もできるが、400年前の喜望峰と、400年後のフランス、果ては日本をつなぐ上で、根拠というものは作者の心以外にない。
 そこでこの文章の中で古井由吉がなにを考えていたか考えてみるのだが、つねに回りこまれている現代と、キリスト教の直線的な時間性にもとづいた、つねに発展をもとめる近代が、ヴァスコ・ダ・ガマの船のイメージとして冒頭に掲げられているものの、このように雄大な時間論があるとはいえ、やはり年表上の点を結ぶものとして、唯一信頼できるのは人間の生きる時間だけ、という感情なのではないのだろうか。
 古井は歴史のなかに、エポックメイキングな場所をさぐっていく、エポックメイキングとは、科学技術や、あるいはそれによる人間の意識の上書きによって、世界のとられられかたが変わる瞬間である。世界中の政治経済を思いおこして年表を埋めたなかで、エイズの蔓延とその報道による人間の身体意識の変更をあげたあたり、やはり人間の生きる時間、にかんするこの人の思いが出ているのではないか。

(双書時代のカルテ『始まりの言葉』 岩波書店 2007年)