21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

堀江敏幸『ゼラニウム』 「アメリカの晩餐」

簡単な挨拶と自己紹介を棲ませて招き入れられたアパルトマンは、サングラスのプロデューサーが一ヵ月前に購入したばかりで、窓がすべて通りに面したに二十畳敷きくらいの大部屋の連なる豪奢なつくりだったが、まだ内装が済んでおらず、壁という壁の装飾がはぎ取られて石膏ボードがむき出しになり、要所にぽつぽつとあけられた電気配線のための小さな長方形の穴から赤白の銅線をつつんだ灰色のコードが蛇のようにのぞいていて、脚立のせいで、ジャングルを模した子供の遊戯場といってもおかしくないほどである。(96ページ)

 金持ちの夕食、あるいはパーティー、といった舞台装置がどうやら私は好きなようで、フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」はもちろん、甲斐谷忍の漫画『ソムリエ』の、ポール・アレクセイのエピソード、あるいは『じゃりン子チエ』の、「レディー幕ごはんの夢」といったエピソードを繰り返し読んでしまう。ほとんどが盛者必衰の陰のあるエピソードであり、そこに快哉を叫ぶビンボー人のあさましい根性ももちろんあるのだけれど、成りあがりだが情熱を持ったホスト/ホステスと、他人事をよそおうゲストたちの空回りというか、上滑りの感覚に一抹のかなしさを感じるからかも知れない。
 さて、堀江敏幸の短篇「アメリカの晩餐」は、デニス・ホッパーがでるらしい新作映画を売り込もうとしている日本人の通訳、というよりは影響力を持つらしい批評家と、プロデューサーに賄賂をそれとなくわたすことを頼まれた主人公が、この夕食を準備したフィリピン人の女性と出逢い、魅力を感じるという物語である。デニス・ホッパーの出演作を背景に描かれる、この会合のほどよい胡散臭さと、やはりどこかに匂ってくる盛者必衰の陰は、十分に私を満足させたが、この作品のおもしろさは、ホストたちでもメインゲストでもなく、あきらかにその外部にいる東洋人たちにスポット・ライトがあてられることだろう。
 このふたりの関係もユーモラスなミスコミュニケーションに閉じられるけれども、どう考えても空虚な「アメリカの晩餐」に、東洋人の女性が供したフランス料理の味と、彼女の唇の印象だけが読後に鮮烈に残って、この短篇は私のお気に入りになりそうである。

いまの文章はさくらんぼ一般に適合する複数形(レ・スリジェ)ではなく、一本(アン・スリジェ)の、と単数にしておくべきではないか、さくらんぼがあんなに甘いのは、誰かの死骸が埋まっているからだと想像するもの悪くはない、わたしの《友だち》はさくらんぼの木で首を吊ったわけじゃないけれど、あなたがその一節で《事故》を示唆するつもりなら、わたしとしてはさくらんぼの木も死骸も不特定な単数にしておきたい(「さくらんぼのある家」)

(『ゼラニウム』 中公文庫)