21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

伊藤計劃『ハーモニー』

「ああ。わたしはものすごい吐き気に襲われた。

 駄目なんだよ、お母さん。

 わたしはやせ細って動かないからだのなかでそう叫んでいた。ぜんぜん駄目なんだよ。そうやって、誰彼構わず他人の死に罪悪感なんて持っちゃ、いけないんだよ。だって、ミァハとお母さんには何の接点もなかったんだもの」

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のっけから自分の話で恐縮だが、私は学生のころドストエフスキーを専攻していて、卒論のタイトルが「『カラマーゾフの兄弟』の自然観」、修論のタイトルが「ドストエフスキー創作中期における病気哲学の展開」であった。細かい話はよすが、前者は自然と身体がともに英語で言えばnature(ロシア語で「priroda」)で、≒の関係にあるということ、後者はドストエフスキー作品の「病」を、「原罪=意識=病」としてとらえるということを書いたつもりだ。
 その流れでみると、この伊藤計劃『ハーモニー』ほど、ドストエフスキーの描いた「自然」や「病」を真っ向から捉えた作品は、おそらく日本文学史上に存在しない。埴谷雄高でさえ、もっと東洋っぽい感じで都合よく「自然」を捉えていたと思う。むろん、伊藤計劃氏がどの程度ドストエフスキーを読み込んでいたのかは知る由もないが、彼の世界文学に対するセンスの良さを全面的に信頼し、この本を「私にとっての『カラマーゾフの兄弟』の続編」と呼ぶ由縁である。そして、この本が「ハーモニー」そのものに対して述べている疑念は、私がつねに『カラマーゾフの兄弟』に対して感じている胡散臭さも裏書きしてくれる。さて、あらすじを書く。

 局地的な核戦争が続発して、現行の政治体制がほとんど崩壊してしまった2060年。世界は高度に発達した医療福祉体制により、病気や争いがほとんど絶滅した友愛の社会になっていた。トァン、ミァハ、キアンの3人の少女は、「この世界に傷をつけるため」、餓死による自殺を図るが、3人のイデオローグであったミァハだけが死に、トァンとキアンは一命をとりとめる。13年後、「生命至上主義」の護り手として、世界の紛争地帯を監視する「上級螺旋監察官」となったトァンは、システムの目の届かない辺境で、廃絶された酒、タバコを入手しては「程々」に楽しむ、という生活を送っていたが、その行動がバレて査問のために日本に呼び戻されることになる。日本でトァンは久々にキアンと再会するが、世界に適合した生活を送っていたはずのキアンは、トァンの目の前で突発的な自死を遂げる。キアンが死んだその日、その時、全世界で六五八二人が突然の自害を図っていた。トァンはこの事件にかかわりがあるらしい自分の父と、死んだはずのミァハの影を求めて、事件の調査を始める。

 こうやってあらすじを書くと、前に『虐殺器官』について書いたように、なんだか面白くなさそうであるし、しかも『虐殺器官』においては、相当に洗練されていた会話文のセリフ回しも今回はかなり感傷的で甘ったるく、カッコ良いことこの上なかった引用のセンスも、ちょっとムージルとかフーコーとか当たり前の文脈で出すぎじゃね?、という感じではあるが、それでもこの本は最高に面白いです。

問われているのは、「わたし」がいまここにいる意味なのだ。)

(『ハーモニー』 ハヤカワ文庫JA