21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

雑感: 偽善について

「人々は見たいものしか見ない。世界がどういう悲惨に覆われているか、気にもしない。見れば自分が無力感に襲われるだけだし、あるいは本当に無力な人間が、自分は無力だと居直って怠惰の言い訳にするだけだ。だが、それでもそこはわたしが育った世界だ。スターバックスに行き、アマゾンで買い物をし、見たいものだけを見て暮らす。わたしはそんな堕落した世界を愛しているし、そこに生きる人々を大切に思う。文明は……良心は、もろく、壊れやすいものだ。文明は慨してより他者の幸せを願う方向に進んでいるが、まだじゅうぶんじゃない。本気で、世界中の悲惨をなくそうと決意するほどには」
伊藤計劃虐殺器官』)

 皆さんおそらくご存知のとおり、昨夜、モスクワの空港でテロが起こった。30人以上もの人が亡くなったのだが、会社でその一報を聞いて、正直なところ「またか」と思った。わが社で唯一の日本人駐在者である私自身はもちろん無事だし、社員たちも海外出張は予定されていないので、国際線のターミナルで起こった事件に巻き込まれている可能性は、かぎりなくゼロに近い。いずれにせよ、東京の人たちは私たちの安否など気遣ってもいないだろうが、報告文を書かねばなるまい、と思って若干憂鬱だった。
 やがて、JAL便の到着する、私もよく利用するターミナルで、そのJALが着陸して一時間やそこらの出来事であると気づき、少し、顔見知り達のことが心配になってきた。ただ、メールで他社の人ともやり取りをする中で、JALは時間通りに到着し、まさに、その便に乗っていた人たちも、事件が起こるころには空港を離れていた、ということが分かって若干ほっとする。いずれにせよ、モスクワに住んでいる以上、身近な脅威であることは確かだし、この国で働いてお金を貰っている以上、請け負わなければならないリスクのひとつと思い、日本から安否確認のメールをくれた有難い友人達にも、そのように答えておいた。
 しかし、一夜明けてふと思ったことは、私がもうすこし前の日本人なら、被害に遭った方の冥福を祈るとか、あるいは「かわいそう」であるとか、偽善的に呟くのではないか。もちろん、偽善そのものに意味はないし、たしかに見知らぬ被害者のために涙を流すことは不可能なのだけれど、ただ一応偽善をするときその人は被害者のことに考えをめぐらすのである。一方で私は、自分が他の日本人より多めに背負わされているリスクについて不満を持ちはしても、被害者のことも、あるいは悲惨な状況に生きていたかもしれない加害者のことも、考えはしなかった。報道についても、それこそThe Yellow Monkeyの「JAM」みたいに、「日本人に被害はない模様です」と言っていた。(いちおう、菅首相は冥福を祈るむねを述べていたが)。
 ポーズとしての偽善は、どう考えてもみっともないのだが、それでも偽善のことばを吐くとき、ある程度まともな人なら自分が偽善者であることを感じていると思う。と、すれば、偽善のポーズを取りもしないことというのは、あるいは偽善の構えをとることよりみっともないのかも知れない。
 今回の事件で亡くなられた方々の冥福をお祈りし、また家族・関係者の方々に哀悼の念を述べたい。