21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

古井由吉『辻』 「草原」

あなたが殺したのではないの、と言った。
理由を話しましょうか、と爪の先をさらに肉に喰いこませながら、後を継がなかった。
(100ページ)

 辻、がなにを意味するのかを読み解くことは、この作品集を読む上でべつに重要なことではないと思う。しかしながら、辻とはタテ・ヨコの道が往来する場所であり、さらには古井作品の常として、そこには時間軸も往来しているとすれば、なんだか立体的な建築のコンプレックスをみているような思いにも捉われる。
 と、すれば、この一篇はその立体的な構造物のなかで起こった殺人事件を読み解くミステリーであるとも言える。彼女が35歳のときに出逢った、4歳年上の妻は、前の夫と「一年ほど前」に死別しており、自殺であったという。その男、松山と主人公の安居は会ったこともないはずだが、ひょっとして生前の彼と私はすれちがっており、そのとき、悪意の一瞥でかれを絶望の縁に追いやっているのではないか。やがて安居の妻となり、子を生す智恵は、かれのそんな思いを読みとり、幾度か「あなたが殺したのではないの」と呟く。その妻と死別して3年、10歳になる息子の姿をながめながら、安居はもういちどこの「事件」を思い起こしている。
 智恵のことばを事実として捉え、安居が殺したのでないとすれば、容疑者はひとりしか残らない。安居は松山と似ているが、親どうしが同郷である松山と智恵は顔つきまでもっと似通っており、近親相姦めいた感覚をおそれる松山は、妻の妊娠を望まなかった。つまり、犯人探しのミステリーにしてしまえば、実に下らない話である。
 そして、後にのこるのは、まだ40代のはじめである主人公・安居の、亡妻にたいする不思議なまでの執着心と、その妻が残した我が子への執着心であり、これらはすべて、過去をさかのぼって松山という男を殺したかもしれない。時間軸を有するコンプレックスのなかで、影の薄い松山という人間の孤独が、つよく、浮かびあがってくる。

遠くから大勢の賑わいに似たざわめきが地にひろがって寄せた。雨になったわ、と智恵は目をひらいて、わたしたち、自分が何者か、ほんとうのことは知ってはいけないのね、と安居の手を取り、安居もゆるく握り返したつもりが思わず力がこもった。あれが、そのことについて二人の交わした最後の言葉になった。(107ページ)