21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

古井由吉『人生の色気』 第一章「作家渡世四〇年」

ひょっとしたら、年から年へと振れるそのはずみに、自分のいなくなった後のことまで、話していたかもしれない。(「ゆめがたり」)

 古井由吉氏の作品にはよくサラリーマンが登場するのだが、大学の先生を「サラリーマン」と考えるのは止すとすれば、氏にはサラリーマン経験はないはずだ。よって(というのも変だが)、氏の描くサラリーマンはまったくリアリスティックではない。一体なんの仕事をしているのかも分からないし、サラリーマンのよく考えそうなことを決して考えない。
 しかしながら、かれら古井作品に描かれるサラリーマンの立ち姿、そして述懐の息づかいというものは異様なまでにリアルである。多くは出版社や広告会社からの転職である、「サラリーマン出身」の作家たちが描くサラリーマン像が、決して私自身や私のまわりの勤め人たちを連想させるものではないのに、古井作品のそれは、席を並べて仕事をしていてもおかしくない、と思えるくらいリアルなのだ。これは、どうしてなのか?(どうでもいいが、私はいささか「サラリーマン」という言葉を書き過ぎた)。
 この本を読むと、その理由が分かる。古井由吉は、とても経済観念が発達した作家なのだ。時代の流行からは途絶して、独自の世界を築いている作家、という印象を持っていたが、それでいて、ものすごく時代の流れを透徹する目を持っている。作品を好きで、よく読んでいたつもりだったが、そのことに初めて気づかされた。気づかされて、人生の先輩を仰ぎ見るような気持ちになった。

六〇年安保の前に、阪神教育事件(四八年)や砂川事件(五七年)という、二つの紛争があったでしょう。あの頃のデモは、まだ、人の履物が貧しくて、だいたい運動靴かボロ靴でした。ところが、六〇年安保の時、国会前でデモ隊が蛇行しているその足元を見ていると、僕よりよほどいい革靴を履いているんですよ。とても妙な眺めでした。(24-25ページ)

 もうすこし底意地の悪い見方をすれば、時代の寵児でもなく、あるいは金銭的に裕福ですらなくなった世代の作家の草分けとして、金銭感覚がわれら「庶民」にちかいのである。だが、「芸術家として、社会の応援や、国家の庇護がすくない」などという下らぬことは言わず、冷静に、淡々と、各時代(たとえば田中角栄オイルショック、脱サラ)と作家としての自分のあり方を語る。いままで盲目にして気づかなかったこの作家の、きわめて強靭な一面を見て、もう一度作品を読み直したい、と思うことは請け合いの一冊である。

流行の元になるものは、作家ではなく社会です。しかし、七〇年代からの社会は、変転定まりないし、また、どう変転しているのか、はっきり意識することもできないような社会でしょう。となると、流行も本当の流行たり得ないのではないか。「流行作家」として、ある作家がその骨格を作り上げてゆくことは、むずかしいのではないか、と思ったのです。ちょうど、厄年にさしかかるあたりのことでした。(29ページ)

(『人生の色気』 新潮社)