21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

雑感:あらすじについて

 文学が今後隆盛をとりもどすかどうか、まったくわからないけれど、一人の文学畑出身者として思うことは、「茶のみ話」としての文学を開発したい、ということだ。つまりは私のような30前後の男たちが集まると、茶のみ話(と、いうよりは居酒屋トーク)として、昔のマンガの話が機能する。つまりそれは、「わが人生に一片の悔いなし」(『北斗の拳』)であるとか、「強くなるための努力を女々しいこととして拒否した強烈な雄度」(『グラップラー刃牙』)であるとか、「邪鬼が異様に大きく見えたのはこの威圧感のためか」(『魁!男塾』)だとか、「見ろ、人がゴミのようだ!」(『天空の城ラピュタ』)だとか、名ゼリフや名場面を起点として、それをみんなで思い返しているだけでたのしいという、そういう会話のことだ。(最後のほうはいったい名ゼリフか?)
 マンガの場合、気に入ると何回も読み返すことが簡単なので、プロットやセリフをある程度はみな覚えているし、まあともかく何にしろ流行っていたので、話題にしやすい。かたや、文学を話題にするとなると、かなりコアな人間ばかりが集まって、コアな会話をすることにもなり、また、「基礎教養」がすでに崩壊しているこの国では、自分が読んでない作品に触れられないようにするために、さらに自分のほうからよりマニアックな本を持ち出す、というような、どうかんがえても共通言語を見出そうとしているとは思えない、つまらない会話になってしまいがちである。(とくにこれは、文学部生どうしの会話において顕著である。社会人とか、別学部の学生と話すと、もうすこしフランクになる)。
 ただ、名場面や名ゼリフの「凝縮度」となると、マンガよりも文学の方がよほど優れているわけで、端的に言えば、文学はきっと茶のみ話のネタになる、と思うのである。(ここでいう「凝縮度」とは、いわゆる哲学的「深さ」のみならず、イタい述懐満載のヒースクリフのセリフのような、ツッコミどころの多さも指す)。そしてそのためには、われわれ書評ブロガーが小説の名場面・名ゼリフを宣伝しまくる、というのはひとつの方法としてあるのではないか。
 そんなわけで、第一歩として、自分でも理解するのに苦戦している『巨匠とマルガリータ』の「あらすじ」を書いてみた。ここで私が意識している「あらすじ」とは、映画の予告編のようなもので、その作品のいいとこだけを見せびらかして、その作品を手に取り口の端にのぼらせてみよう、という人を増やすべき下心を持ったものである。下の文章はその目的を達している、とは言いがたいが、作品をすこしでも誘惑的に見せるきっかけになればなあ、などと思っている。