21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

伊藤計劃『虐殺器官』 第二部4

この古さと曲がりくねった道、そしてカフカのイメージが、ぼくにこの街を迷宮のように見せている。ボルヘスが描いたラテン・アメリカ的なそれとは違う、ヨーロッパの青く暗い光にうっすらと浮かび上がる、冷たい迷宮に。(第二部6)

 ぐいぐいと引き込まれるように読んだ一夜を過ぎて、もう一度眺めてみても、伊藤計劃の文章は魅力を放ち続けている。不思議なことだ。と、いうのも、この小説、いかに細部が綿密につくりこまれているといっても、やはり依然として紋切型の集積ではあるし、最後の部分で語られる黒幕の動機と、主人公の行動なんてまったく意味が分からず、とくに黒幕が動機を語る部分なんて、フィクションでは絶対にやってはいけないほどの肩透かしだと思うからだ。もっと言うなら、フィナーレの戦闘シーンなど、水戸黄門か007かと思うくらい、予想通りの展開に終わる。
 第二部から登場するチェコ人のヒロイン、ルツィア・シュクロウプも、「主人公にも惹かれる悪役の愛人」という、信じられないくらい紋切型の役割と、反ユートピア小説のファム・ファタルとしての典型を併せ持ちながら、これでもかと言うくらい魅力的だ。第二部4はルツィアと主人公が言語にまつわる「文化的な会話」をする場面だが、この場面の言語についての蘊蓄がどのレベルのものなのかは、SFにも言語学にも詳しくない私にはよく分からない。しかし、「ことばによって現実が規定されている」という考え方に、魅力は感じながらも違和感を持っている主人公が、ルツィアに「言語は人間が進化の過程で獲得した器官だ」という説を聞かされ、ゆらっと世界観が揺らぐ、この実感はほんものだ。この場面で登場人物たちは、ドストエフスキーの人物のように、むきだしの世界観をぶつけあったりはしないのだが、イデオロギーは国家に委託し、アイデンティティすらテクノロジーによる感覚操作であやふやなものにされている主人公の、唯一の実存と言っていい「世界観」がやわらかく揺さぶられる様は、それ以上に衝撃的である。
 ところで、この本の帯には「現代の罪と罰」と書いてある。こういう宣伝文句を背負わされた作品は、現代日本の小説のなかで、おそらく3ケタには上っているだろうが、その多くの作品にこの小説に感じられるような実感は存在しない。おそらく伊藤計劃ドストエフスキーの作品も、「自分のこと」として読むことが出来た人であろうと思う。

神は死んだ、と誰かが言った。そのとき罪は、人間のものとなった。罪を犯すのが人間であることは不変だったが、それを赦すのは神でなく、死に得る肉体の主人である人間となった。(第三部3)