21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

大塚英志『キャラクター小説の作り方』 第9講

湾岸戦争の時にはTVゲームをする若者たちが「虚構と現実の区別がつかない」と批判されたことを記しました。けれども「9・11」以降、ハリウッド映画の「物語」のように現実の戦争を始めようとしているものがアメリカや日本の政治家たちであり、テレビや雑誌に登場する大人たちでもあったわけです。虚構と現実の区別がつかないのは、おたくやゲームファンではなく、政治家やジャーナリストなのです。(第11講「君たちは「戦争」をどう書くべきなのか」)

 さて、最近の私の書物に関する購買行動といえば、AMAZONでまとめ買いしたものを実家にためておき(実家は迷惑な話だ)、年に二回帰国したとき、これまた現実の本屋でもまとめ買いした本といっしょに、国際郵便でロシアに送る、ということにつきる。だからたぶんこの本は、「英文学のキャラクタービジネスのうまさが英語の流布に一役買い云々……」という妄言を吐いていたころに購入したにちがいないのだが、今回、『虐殺器官』を読んで、ひょっとしたらこの二冊はしっくりくるのではないか、と思って読み始めたら、やはりそのとおりだった。
 本書の趣旨は、著者が「スニーカー文庫のような小説」と呼ぶものの書き方を実践的に教える、という体をとっている。これは、これまでの「文学」が、現実をモデルとして描写しているのに対し、アニメやまんがの世界を「書く」小説にはもう少し可能性があるのではないか、という願いに基づくものだ。すなわち、戦争、あるいは人間というものについて、ハリウッド映画とは違った描き方をしてきた日本のアニメやまんがに端を発する小説は、現実を支配している物語(つまりは、ブッシュの戦争)とは違う形で、21世紀の現実を「書き」得る、ということである。
 この本自体、非常に面白く、筋道の立ったものであることは疑いないが、ひょっとして『虐殺器官』を読んでからでなければ、ここまで納得はしなかったのではないか、と思う。すなわち『虐殺器官』は、描いている対象がどう考えてもリアリティのないまんがの世界であったにもかかわらず、一方で9.11後の世界を実感を持って書いた作品であったからだ。
 それはさておき、昨日までの項で、私がやたらと使っていた「世界観」という言葉が、この評論の中では違った意味で使われている。私はいささかベルジャーエフの『ドストエフスキーの世界観』などを意識して、この世界の在り方、なりたち、などについて考えるものの見方、というような意味でこの言葉を使ったが、この本では、(単純化して言えば、)ゲームのルール、アニメの「設定」といった意味でこの言葉が使われていて、作品を作るときに「世界観(ゲームデザイナー)」担当、ストーリー(ゲームマスター)担当、キャラクター・作画(プレイヤー)担当という割り振りでまんがの作品を作る方法まで書かれている。「ドストエフスキーの世界観」というとき、それはキリスト教というある種イデオロギーめいたものを抜きにしては考えられないのだから(とはいえ、キリスト教もあくまで世界観なのかも知れないが)、ひょっとして私が使った「世界観」という言葉はゲームの「設定」に近かったのではないかと思えてくる。そうすると気になるのは、大塚英志が、現代の書き手には「ゲームデザイナーとして世界観やキャラクターの設定を作る能力だけは異様に発達している」と書いていることだ。
 また少し暴走すれば、現代の人間は、アイデンティティではなく、自分の世界観、あるいは「設定」を守るために生きているのではないだろうか? そんな問いさえ浮かんでくる。

予定があって始めてこそ(原文ママ)予定通りに行かなくなるのであり、旅にたとえれば旅慣れた熟練者たちは時には予定表なしのたびも可能ですが、旅の初心者たちにはやはりちゃんとした日程表は必要です。その上で、きっちりと迷子になる必要があり(第6講「物語はたった一つの終わりに向かっていくわけではないことについて」)

(『キャラクター小説の作り方』 角川文庫)