21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

E.ブロンテ『嵐が丘』 第三十三章

『いま一度あいつを腕に抱こう! 冷たくなっていたら、俺が凍えているのはこの北風のせいと思い、動かなければ、眠っているんだと思おう』(第二十九章)

 ある一定の時期まで、小説にはたしかに二つの機能が存在していて、『嵐が丘』は最も成功した作品のひとつである。つまりひとつめは、「アイドル」を創造するということだ。
 むろん19世紀にも、貴族の令夫人であるとか、舞台の女優とかは存在したのだろうだけれど、「こういう女性がすばらしい」というのを巷間に流布させたのは、やはり小説だったのではないか。ただ、「すばらしい」と言っても、文学作品上の傑出したアイドルは清純派ではなく、どっちかと言うと「エリカ様」的な、すこしぶっとんだキャラクターであるほうが魅力的だ。キャサリン・アーンショーなどエリカ様の典型だろう。
 してみると、ヒースクリフというのはストーカーの先駆者か。北野武監督の「Dolls」に、顔に怪我をした自分のアイドルを見ないようにするために、ナイフで自分の目を突く『春琴抄』みたいなストーカーがでてくるけれど、キャサリンの娘のキャシー、そしてキャサリンと同じ目をしたその甥のヘアトンの眼差しに苦しめられ、命を落とすヒースクリフはそれに近い。
 もうひとつの機能はおそらく、人びとの口吻にのぼるような印象的な場面をつくりだすということで、もちろん『嵐が丘』はその点でも優れている。魅力的なキャラクターと、ドラマチックなシーンを演出する、などということは物語を作るうえで当たり前のことで、逆にそんなことに拘泥するのは「文学的」ではない、と言われてしまいそうだが、おそらくそんな批判が存在しうることが、小説がこれら二つの機能をどこかで失ってしまった証左なのだ。
 まったく話はかわるが、「臥薪嘗胆」の故事が教えているのは、苦労に絶えることの大切さではなく、恨みとは忘却可能だという事実ではないか。それ自体はとてもよいことだが、ひょっとしたら現代の小説はヒースクリフの恨み、執念を取りもどしたほうがいいかも知れない。

臨終の床の前ではしゃぎまわる気かと思いましたが、急に落ち着き払って膝をつくと、両手を差しあげて、正当な当主様と由緒ある血統が復権してありがたいと、神に感謝をささげました。(690ページ)