21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

E.ブロンテ『嵐が丘』 第十五章

奥様は三日目に、ようやく寝室のドアの錠をはずしました。水差しとデキャンターの水を飲み干すと、もっと注いできてと云い、オートミールのお粥も所望されました。自分は死んでしまうに違いない、と云うんです。ははあ、これはエドガー様に聞かせたい台詞だなと、あたしは察しました。けど、死ぬはずがないと思っていましたからそれは胸にしまって、お茶となにも塗っていないトーストをお運びしたんです。(第十二章)

非実在青少年」を保護する都の条例が施工されたら、16歳のキャシーをひっぱたいたりしているこの小説は有害図書になるのかしらん、などと思いながら「病弱」というテーマについて思いをはせてみる。この小説に登場するひとびとは、20歳やそこらで感情の激発から脳炎を発症して死んでしまうキャサリンも、アル中で荒れた生活のうちに死んでしまうその兄のヒンドリーも、なんだか死ぬためだけに登場したようなその妻のフランセスも、果てはその病弱をみずからの父の道具にされているリントン・ヒースクリフも、みな確かに病弱である。
 ふと、鬼にさらわれて死んでしまう『伊勢物語』の姫君を思い出すが、文学作品において登場人物を感情のおもむくままに死なせてしまうことができる「病弱」は、きわめて便利な装置であるということができる。しかし、物語の節目節目で都合よく病を得るドストエフスキーの登場人物とちがい、『嵐が丘』にはいちおうの科学的考察があるようで、たしかにエドガーの両親たちはキャサリンがまき散らした熱病のウィルスによって死ぬのである。ここには、いささかの宗教的なにおいもなく、たとえばリントン・ヒースクリフを殺すのは、おもに実父のあたえるストレスであり、また湿った気候と寒さも影響をあたえている。
 では、リントン夫妻を数日のうちに殺してしまったような熱病からも回復したキャサリンを「病弱」にし、殺してしまったものは何か? ヒースクリフへの屈折した愛、という答えは簡単でもあるし、おそらく正解でもあるのだけれど、おそらくは一回目の熱病の際に(つまりは結婚とヒースクリフとの別れを境に)、キャサリンの「体質」が変化を遂げているのである。簡単に言えば、少女から大人になったということだが、お転婆娘としての高慢な性格はそのままに、精神の容れ物がかわってしまったことが彼女の死を早めている。ゆえに、第十五章に描かれたヒースクリフとのラブシーンは、どうにもこうにも上滑りする。感情ばかりが先走り、現実感をともなわないのだ。

はたから冷静に見ますと、ふたりの演じる場面は、なんだかよくわからない恐ろしいものでした。自分にとって天国は流刑の地になるんだとキャサリンが思うのも、もっともではあります。現し世の肉体といっしょに、その心まで捨て去ってしまうのでないかぎり。(331ページ)