21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

E.ブロンテ『嵐が丘』 第九章

「入っておいで! 入っておいで!」と云って、すすり泣く。「キャシー、さあ、こっちだよ。ああ、お願いだ――せめてもう一度! ああ、わが心の愛しい人、こんどこそ聞き届けておくれ――キャサリン、今日こそは!」(第三章)

 ヒースクリフというのは不思議な主人公で、どうにも感情移入することができない。愛憎のどまんなか、それらが交差する場所にいながら、かれの知性も、愛も、悪行も、すべてにおいて中途半端である。……と、いうのが10年以上前この本を読んだときの感想だったのだが、やはり読者として私が未熟に過ぎた、と言うしかないだろう。確かにかれは、ジュリアン・ソレルほど小賢しくもなければ、ヴロンスキーほど薄情でもなく、ロゴージンほど極端な行動にも走らない。しかし彼の復讐ほど完遂されたものは、世界文学史上を見渡しても存在しないのではないだろうか。
 そんな個人的な私の回想はさておき、第九章はキャサリンエドガーとの結婚を決意しながら、同時にヒースクリフへの愛を家政婦に告白するのを、当のヒースクリフに盗み聞きされ、絶望したヒースクリフが嵐のなか出奔する、というめまぐるしい内容をいとも淡々と書ききった章である。もちろん、この章はキャサリンの熱っぽい告白を含んでいるため、字面の上では派手な感情が踊っているのだが、家政婦のネリーが赤の他人のロックウッドに語る昔話、という体裁をとっているため、キャサリンの感情もヒースクリフの悲嘆も「他人事」の域を出ないように工夫されている。訳者解説で鴻巣友季子氏が書くとおり、キャサリンヒースクリフの一人称であれば、この物語はもっと安っぽくなっただろうし、ネリーの語りのみでも「家政婦は見た」になってしまう。ここに描かれている壮絶な「他人事」は、あくまで読者にとって遠い話でありながら、周りの人間に迷惑をまき散らす愛の物語の全体を決定づけ、「他人事」であるがゆえに読者を惹きつけるのである。
 なんだかみなにこの『嵐が丘』を読んでもらいたい、という感情を抱えながらうまく書けないでいるが、やはり訳者の鴻巣友季子氏の文学的センスは一流だと思う。彼女に愛されたキャサリンの台詞やネリーの語りの翻訳はすばらしく魅力的である。一方、ワキ方のロックウッドはよっぽど嫌われたのか、彼の語りの部分にはあり得ない日本語が頻出し、出だしの部分など退屈極まりないが、その部分を過ぎれば惹きこまれること請け合いである。私が『嵐が丘』を宣伝する方法はもう一回考え直すとして、とりあえずこの名作を手にとって見てほしい。

もし、わたしがこの体の中だけにすっかりおさまるんなら、せっかく神に創られてきたのに、なんになるというの?(172ページ)

(『嵐が丘』 鴻巣友季子訳 新潮文庫