21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

カズオ・イシグロ『夜想曲集』 「降っても晴れても」

「エミリが知ったら、おまえは金玉鋸挽きの刑だ」(70ページ)

読んでいて疲れる短篇と、疲れない短篇とあると思うのだが、カズオ・イシグロの『夜想曲集』はそれを交互にくりかえす形でできていて、この「降っても晴れても」は疲れる方に属する。べつに疲れるから悪い、ということはないのだが、読者が「もうそのへんでええんちゃうの?」と言いたくなる悪ふざけを、もうちょっとだけやってみるのが今回の短篇集のツボらしい。そのぶんだけ、読者の神経はちょっとだけ長くいたぶられるわけだが、不思議なことに、これがあまり不愉快でなく、むしろ読後に一定の余韻を残すように仕組まれている。さもなければこの短篇集は、読み口さわやかなものの後味の悪い好短篇と、良質のコメディのくりかえしのみで終わっただろう。
 学生のころ、おなじ音楽が趣味として憧れていたエミリは、もうちょっと俗な音楽が好きだが出世しそうなチャーリーと結婚した。主人公のレイは、地味に南ヨーロッパで英語教師をやるうちに、もう47になってしまったが、いまだにロンドンに帰るときにはエミリとチャーリーのフラットに泊めてもらう。これまでエミリは理想の生活を手に入れたように見え、レイのためにフラットはまるで一流ホテルのように整えられていたのだが、今回レイを待っていたのは散らかし放題の部屋で、しかもチャーリーとエミリは危機を迎えているらしく、レイはチャーリーに「俺の出世に限界を見出しはじめたエミリに、みすぼらしいお前を見せて、エミリをもういちど俺に振り向かせてくれ」、とかなんとか頼む。
 一口に言うと、「なんじゃそれ」みたいな話だが、まあ世の中そんなもんかも知れん、と思う。話は人のいいレイが、エミリの日記を覗きみてしまって、それがバレないように七転八倒するコメディになっていくが、そこかしこに見え隠れする人びとの悪意と、その裏腹に生きるためのモチベーションを確保しなければいけない悲しさが響いている。

私はワルシャワで働くようになった。そこの闇市でレコードが売買されていることを知り、トニー・ガードナーのアルバムを探しはじめた。一枚、また一枚と見つけては、母に会いに戻るたびに持ち帰った。(「老歌手」)

(『夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』 土屋政雄訳 早川書房