21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

古井由吉『山躁賦』 「静こころなく」

そういって男は笠の縁に手をかけ、かたわらの、桜とも思えぬけわしい枝張りの枯木を仰ぐと姿がやさしくなり、風を慕って、ゆるやかに身をめぐらし本堂のほうへ向きなおり、杖は置かずに片手で深く礼拝して、ふっとまた起こした目を堂の背後に黒々と重なって聳える、これも杉むらばかりにしか見えぬ山林へさまよわすにつれ、笠の下で顔色が恍惚と白くなり、にわかに年寄りめいて肩の落ちた体を杖にようやくすがらせ、腰からうつらうつらと揺すり、あくがれ出た魂の行く方を見送って啜り泣くように、ふるえる息を細くたえだえについていたが、哀しみがきわまった風情で静まりかえったかと思うと、(120ページ)

 この本について書くと随想のゆたかさに押されて、逆にこちらの文章があらすじめく。と、いうよりもむしろ大学受験の、「要約問題」のようになり殺風景なことこの上ない。赤光の火のイメージにはじまって、軍記ものの大火に誘われて芝居めいた謎の男との出会いに・・・・・・などと書いていくと、これまた出来の悪い映画の予告編のようでもある。(ただ、たんなる読み手としては、この要約作業はたのしくもあるのだけれど)
 批評をする気力も実力もないけれど、すこしだけ批評めいたことを書けば、この章には第一章にあたる「無言のうちは」に登場した楕円の月がもういちど登場する。語り手が、「なに出鱈目を歌ってやがる、何がまるいまるいだ」と毒づいた月である。こんどはなぜかそのまるさを肯定しながらも、語り手が旅立つと、もう一度不動産屋の店先をのぞく男のイメージが登場する。
 ただし、今回は、現世と幻の往還の作業も、聖と俗のあいだを行くのではなく、幻の方が軍記ものになっているのでいささか血腥い。一冊を通じて、ときおり語り手は食欲をおぼえることで現実に帰ってくるが、この章に関しては食欲が麦とろを求めたときに、なにかほっとする感すら覚えるのである。

そんなことを未明(あさ)帰りの車の中で考えたのは一月もすでに末になり、南へ向けて走る道路の左手、団地の群れの上空に低く、細い月がかかっていた。(117ページ)