21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

古井由吉『山躁賦』 「千人のあいだ」

牛蒡はキク科だと人に教えられたことを、なるほどと香りから合点した。精進料理というものはあんがい、濃厚な食物なのかもしれない。この胡麻豆腐の味はどうだ。醍醐味の醍醐とは酪乳、チーズのことだそうだが、まさにその味をなずらえているではないか。(74ページ)

この章はめまぐるしい。高野山をおとずれた語り手が、精進料理の濃密さに舌鼓を打ち、「肉食は妄想をさえ浅薄にする。われらの体質ではかえって悪の力を衰弱させる、ということはありはしまいか」、とまで呟くに始まり、なぜ3、40人で行われているにもかかわらず「千人講」なのだろう、というところから数量の迷いにつつまれ、ふと女性の念におそわれ、わずか2ページで谷を巡り、宿に戻ってはウイスキーを舐め、また「いかめ房」と出遭ってその鉦の打ちまくるを聴き、朝の千人講にまじり、はては四国へ渡ろうと決意するまでを描いている。そのあいだ、幾度聖と俗を行き来するか。いや、聖の方へ気持ちが傾こうとしたときは、あえてその中に俗を見出す、という作業を繰り返しているようでもある。
 なかでも鮮烈なのは谷を巡る部分か。かつては聖たちの棲んでいた谷も、いまでは水のおもかげもなく、いまでは土産物屋や飲食店の建ちならぶ集落ではないか、と思いながらも、谷は人心につよく作用する。

谷は荒涼とした、夢殿みたいなものだ。夢想と熱狂と、俗界にたいする呪力を、恨みがましく煮つめる器だ。肉体すら凄惨と変質するぐらいのものだ。あるいは谷とはただのはしくれの場所、はぐれものたちの吹き溜まりの、呼び名だったのかもしれない。いや、谷はそれにしても谷、谷地でなくてはならない、かすかにも谷地であるにちがいない。(80ページ)