21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

古井由吉『山躁賦』 「無言のうちは」

われわれの栖は、山の上から見れば、どれも霊園みたいなものだ。ああだこうだ騒ぎながら、夜ごとに往生している、先祖になっているのかもしれない。(16ページ)

 『山躁賦』の第一章は、病みあがりの語り手が、叡山にむかう場面から始まる。印象的なのは病のさなか、夜中の空腹感におそわれて食べたウルメの香りだろう。この小説には、静謐な風景描写に対峙するかのように、ところどころに生臭があらわれるが、とくに腹がふくれるとも思えない干魚の香りが、いかにもな生臭さとともに肉体を現実にさしもどす。あたかもこのあからさまな匂いがなければ、肉体が成仏してしまうかのように。
日常生活に追われているときほど現実感がなくなる。あたかもそれは、多少の余裕があり現世に不満をもらす贅沢よりもさらに一段うえを行くかのようだ。ただし病を得て、あるいはまたなにかほかの理由で、ふと立ち止まるときには、いったい自分はどこでなにをしているのだろう?という感覚に捉われる。そのようにこの小説を読めば、おそらく間違いなのだが、一方でこのウルメの香りは腑に落ちるような気もする。
 ときおり古井由吉の小説の感覚をつかむのは非常に難しいのだが、このように穢れの一点に読みを集中することがあってもいいように思う。
 
じつに今の世の男は、人生の節目節目にこうして、たいていはかったるい風の吹く春先の午後に、日頃気安く思う沿線の駅に降り立ち、まず不動産屋の貼紙をのぞいて、商店街を抜けてどこまでも家の建てこむ道を行くにつれ、見知らぬ土地、這入りこめぬ土地、無縁の土地、同じ都会にあり、同じ電車に揉まれながら、よそ者、はぐれ者になっていく。(13ページ)

(『山躁賦』 講談社文芸文庫