21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

堀江敏幸『子午線を求めて』 「忘れられた軽騎兵」

主客のはっきりしない関係を語り手に要求するこの女性は、「ケチャップの創始者ロベール・ハインツの曾孫のそのまた孫」だと言い張っていたのだが、遺体の身元を調査していた現地警察とインターポールの手によって、どこにも存在しない身元不明の人物と断定される。(「下降する命の予感」)

 ポストモダンの悪口を書いたそのあとで、あきらかにその文脈に属するエルヴュ・ギベールに関する文章を引用するのもどうかと思うが。とかく『子午線を求めて』は、澁澤龍彦の「悪魔のいる文学史」を、自分の書きたいもののある種の理想として捉える私にとって、とても好ましいものだった。つまりは、書物や作家について書かれているのに、その書かれている対象が一体なんだかよく分からない、という意味において。
 あとがきに代わる「跋」に述べられているように、この本は「作家なり詩人なりに寄り添いつつ進んだ藪のなかの足跡が立ち消えていく瞬間、小さな楽音が生まれるような呼吸」のもと、あまり有名でない(あるいは私が無学にして知らない)フランスの作家・詩人についての文章を集めて作られている。だから書かれていることがらについて、本来的な関心はあるはずもないのだが、そこにある短いドラマ・リズムが心地よい。私は堀江敏幸氏は現代一の書評の書き手だと思っているが、これらの文章はおそらく書評と言ってもいいものの、ロシア語や英語ではなく、取り扱われている本がフランス語で書かれている以上、たぶん死ぬまでに読むことはない。(ギベールなどの翻訳のある人をのぞいて)。その無責任な邂逅がなんとも言えず心地よいのだ。
 各章のタイトルが何ともいえずまた魅力的で、たとえば、「カメレオンになろうとしているのに、世界はたえず私から色を奪っていく」。そして無責任に一章を俯瞰したあと、ふとタイトルをもう一度眺めれば、それがしっかりと文章に寄り添って結実している。こういうものが何ともいえずたのしいのである。
 さて、「忘れられた軽騎兵」という章だが、ここにもロジェ・ミニエ、ジャック・シャルドンヌ、ジェローム・ルロワなどという、あまりよく知らん作家の名前が羅列されながら、「ところで、四十歳で亡くなったこの小説家の生涯と作品を、『忘れられた軽騎兵』というエッセイにまとめようとしている人物がいる。ジェローム・ルロワの処女作『マルタ島のオレンジ』の主人公クレベールだ」と書かれ、ロジェ・アルヴェイという作家のことを紹介されてみれば、不用意にも茫然と文章を追い、なるほどアルヴェイなる人物はバルセロナで命を落としたのか、と思ってしまう。しかしながら、このエッセイの種明かしをしてしまえば、ロジェ・アルヴェイという作家は存在しないのだ。
 仏文など読んだこともないくせに、ぼーっと読み進んではいないか、と言われたような気がして、もう一度この本が好きになるのである。

何者でもないこと、小説の一人物であること、/生も、物質的な死もない、一つの思念であること(182ページ)

(『子午線を求めて』 思潮社