21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

村上龍×経済人『カンブリア宮殿1』(1)

 新幹線の駅でなにげなく買った『カンブリア宮殿』の本が、ロシアに持ち帰って読んでみたらすごく面白かったので、何回かに分けて色々書くつもりである。
 『グラップラー刃牙』で最高傑作の闘いと言えば、まちがいなく28巻の花山薫VS愚地克巳なのだが、主人公がほとんど関与していないこの闘いが抜群におもしろく、さらには同年代の誰に聞いても「最高!」となってしまうのは、その作品構成の見事さもあれ、「努力する天才」克巳を、「強くなるための努力すら女々しいことと一蹴する強烈な雄度」の花山が極地まで追い詰める、というテーマの鮮烈さによるだろう。いきなり極言すれば、だれも努力したくないから、「努力すら否定する」花山に憧れるのである。
 さて、村上龍はこんなわれわれ世代のことを色々と心配してくれているようで、おそらくこの作家の最高傑作と言える『希望の国エクソダス』でも、「この国には全てがありますが、ただ希望だけがありません」と言っていた。だから、名だたる経営者を前にして、話がどうしてもニートに行ってしまうのだと思う。
 「ニート憲法違反」と言う経営者もいれば、「豊かになったことの副作用」と捉える経営者もいる。後者のほうがニュートラルな考えではあると思うが、両社に通底するのは、やはりニートは社会問題である、という感覚である。ただ私個人の感覚としては、ニートという生き方もあっていい、ように感じる。むろんニートやひきこもりになるには、なんらかの経済的優位性にバックアップされていないとなれないのだけれど、それがあるならなってもいいじゃない、という気がする。
 ただ自分のなかにアンビバレンツな部分もあって、何もしていないよりは仕事で死にそうになっているほうが気が楽、ということもある。たしか高橋和巳が「資本主義の機械の中で歯車として暮らす安逸」とかなんとかいうことを書いていたが、この本を読んでいると、そっちの自分がめきめきと頭をもたげてくる。まあ、どちらにしても求めているものは「安逸」なのだけれど。ちなみに勝ったのは努力する克巳の方だった。

よく若い方が「好きなことをやりたい」と言います。確かにそういう気持ちは大切ですが、職業人としては目の前の仕事をどうしたら好きになれるかということが先だと思うんです。目の前のことも好きになれない、愛せない、あるいはギリギリの努力もしないで「じゃあこっちに」と安易に転職を繰り返していては、いつになってもたどり着けないんじゃないでしょうか。(古田英明)

(『カンブリア宮殿1 挑戦だけがチャンスを作る』 日経ビジネス人文庫