21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

水村美苗『日本語が亡びるとき』 六章

ケヴィン・ケリーが描く理想郷は、実は、理想郷どころか、情報過剰の地獄である。(247ページ)

 まったくない、というのは危惧すべきことだが、あまりない、というのは意外に愉しいものだ。
 段ボール箱いっぱいの未読の本、そして2〜3箱のお気に入りの本と一緒に外国に来てみると、なにかしら読むのが面倒くさかった「積ん読」の本がいとおしくなる。次回に帰国するまでに、全部読むのも不可能ではあるまい。一方、新しい本が欲しくなれば現地語か英語の本を読むわけで、外国語を読むのが苦手とはいってもこれはこれで楽しい。とくに英語で読めば、日本語で翻訳のない本もけっこう翻訳されていたりして、世界が拡がった気分になるのだ。
 そういう感覚の中にいれば、グーグル・プロジェクトによる情報過剰の地獄や、「叡智」を求める人は英語でしか読まなくなるという状況にたいする、著者の恐怖にもこれまた「共感」せざるを得ない。しかしながら、本書を読んでいて、どこかこのへんで熱が冷めてしまうのは、「これからの時代は<読まれるべき言葉>の序列づけの質そのものがもっとも問われるようになるのである」(247ページ)とか、「今、漱石ほどの人材が、わざわざ日本語で小説なんぞを書こうとするであろうか」(265ページ)というような、あからさまな恐怖感に距離を感じてしまうからだ。このあたり、職業作家と、ただのサラリーマンである読み手の乖離なのだろう。はっきり言ってしまえば、この章あたりからあきらかに、「押しつけがましい」のである。
 そして、これまでは論旨はともかく感覚でだけは保っていた一貫性も失われてくる。(一貫性がないからこそ、その恐怖が作家の身を切っていることはなんとなく分かるものの)。本章は「インターネット時代の英語と<国語>」と題されているが、結局インターネットが何なのか、あまり腑に落ちない。梅田望夫の本でもざっと読んで、ミーハー的な恐怖に陥ったのかしら、とすら思えてくる。
 おそらく、著者の予想通り、まっとうな日本語で書く作家と、それを読む読者はこれからどんどん稀になっていく。ただし、レアになることが亡びに直結するとはどうしても思えない。本はできるだけ新本を買うことで、できるだけ作家に貢献するのがファンとしての義務だとは思っているが、別に文学や出版が商売として成り立たなくなっても知ったことではない。そして、そのときに文学を救えるのは、ひょっとしたらインターネットとその中の図書館かも知れないのだから。