21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

水村美苗『日本語が亡びるとき』 一章

そして、読む快楽を与えない文章は文章ではない。(六章 インターネット時代の英語と<国語>)

 このブログでは、できるだけ「随筆」というカテゴリ分けをしないでおいたのだが(だいそれた理由はないが、どのような雑文でもゴミバコ的に入ってしまいそうだったからである)、この本は「随筆」としか呼びようがない。筆者の持論、というよりも読み進めるうちに明らかになっていく、愛情とか憎悪とか焦燥とかが詰まった日本語に対する「感情」としか呼びようがないものを展開するために、理屈ではなく感覚で読者を問い詰めていくのである。
 一章と、二章はその感情を読者に「押しつける」ための助走部分である。「アイオワの青い空の下で<自分たちの言葉>で書く人々」と題された第一章は、世界中の作家を招いて「国際交流」をさせながら、大学の中で自分たちの仕事をさせよう、というアイオワの大学のプログラムでの体験が描かれる。モンゴルやリトアニア、中国、韓国にノルウェーボツワナの詩人や作家と交流しながら、かれらとの経済的、文化的、そしてなによりも言語的な差異を感じる日本の作家の姿は、いかにも世界に対する無知を装っていて、あえていうならカマトトぶっているのだが、この地球上のどこかであまりにも多くの人が「自分たちの言葉」で書いているのだ、という認識に作家が達するとき、その筆致の見事さゆえに読者もその感情に共感せざるを得ない。かようにして、この「随筆」は、読者を感覚的に追いつめていくのである。読者は、ページをめくる手さえ、なかなか緩めることができないだろう。
 そして、著者の結論はといえば、冒頭に掲げた一行に尽きると思われる。このあと三章以降では、「国語」や日本近代文学の歴史に沿って、さらに読者は追いつめられることになるのだが、この本を書かせた最大のモチヴェーションはと言えば、日本語や国語、普遍語としての英語がうんぬんではなく、「読む快楽」が失われる、あるいは失われつつあることへの恐怖ではないか。その恐怖が、かなり暴走気味な終章に向かって、これだけ「おもしろい」随筆をつらね読者を強迫的に追いつめた動因ではないか、と痛切に感じる。

何語でも議論が苦手なので口にすることはなかったが、自分たちが「亡び」ゆく人々の集団ではないかという思いに、捉えられることが多くなった。作家たちが、あたかもそれがもっとも自然な行為でもあるかのように、<自分たちの言葉>で書くのを見るうちに、かえってそのような思いに捉えられるようになったのである。(53ページ)

(『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』 筑摩書房