21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

A.ベンダー 『私自身の見えない徴』 序章

「それなら」とおとうさんがいいました。「こういうのはどうでしょうか。うちはみんながそれぞれ体の一部を提供します。それをぜんぶ合わせれば、ちょうどひとり分が町から消えるのとおなじことになる」(7ページ)

 "An Invisibile Sign of My Own"の翻訳として、私自身の見えない「徴」というのは誤訳のように思う。たとえその字面が、水色の装丁に美しく映えていて、これ以上のものはないと思われ、Signという単語の意味としては「徴(しるし)」のほうが「印(しるし)」よりもふさわしいとしても。十歳の時、父がまるで生きていないかのような「灰色」になってしまい、その誕生日から「止めること」(たとえば、ピアノとか陸上とか、自分が大好きなもの)をはじめたモナが主人公のこの小説では、「欠落」した部分が大きな役割を果たす。例えばかつて数学の先生であった金物屋さんの「42」にしても、失われることによって意味を持つ。その失われた部分は、きっと「きざし」ではなくて、なにものか身体の内部に刻まれた「しるし」ではないかと思うのだ。
 十歳の誕生日のとき、父がモナに語って聞かせた寓話がこれを象徴している。だれも死ぬことのない町で、いっぱいになった空間を空けるために、一家族で一人だけが死ななければならなくなったとき、ある家族だけが、だれも選べないので、全員の身体から一部分ずつを切り取ることを申し出た。しかし鼻のないおとうさんや、足のないおかあさんに町の人はいたたまれない気持ちとなり、家族は町を出て暮らすこととなる。ここまで言うとこじつけだけれど、全員の命が助かる代わりに身体に傷を負ったその傷が、かれらにとっては原罪となってしまったのだ。主人公のモナも、自分に刻まれた原罪=欠落を、木をトントンとノックすることによって確かめ続けている。それは、もうすぐ死ぬかも知れない灰色の病気にかかった父親や、数学のクラスの手に負えない子供たちをかかえるモナを、100パーセントの幸福感には追いやらず、どこか過去に縛りつけながら生かせるための儀式となっている。
 しかし、私のこの解釈はこじつけにすぎないのは、最終章を読めばわかる。癌で死ぬかも知れない母親を抱えたリサに、モナが同じ物語を語って聞かせるとき、その物語は確実に未来を志向しはじめている。「印」は、「徴」になるのである。

町の人々のうちふたりが、彼女のことをもっと長く見ていたいと思って、高さを求めて死刑台の上によじのぼりました。するとたしかに、青い服を着た彼女のうしろすがたがまっすぐ進み、丘の斜面を下り、人々の小さな一群がそのあとをついてゆくのを、ただちに見ることができました。見物人たちはつま先立ちになって、二十フィートの高さから、出ていった一団がまっすぐ死へと歩み入っていくのを見ていたのです。(29章)

(『私自身の見えない徴』 菅啓次郎訳 角川書店