池波正太郎『散歩のとき何か食べたくなって』
性の蘊蓄にはすぐ鼻をつまんでしまうのだが、わりと食についてはとやかく言われても平気である。これは、『ミスター味っ子』を読んで育ったせいかも知れないし、あるいは、食はバタイユが語っていないからかも知れない。
さて、本気で食欲をそそる池波正太郎のこの本は、なにを語っているのだろう? 昔なにを食べ、今はこうである、というそれだけ。ただ、それで食の話はおもしろい。
江戸のころからのおもかげを濃厚にとどめている、この天神さまの境内は、いまの東京の寺社の中で、私が、もっとも好きな場所といってよい。
ずいぶん前のことになるが、雪の日に、このあたりを通りかかって、七分咲きの梅と積雪の湯島天神へ参詣したことがある。
こういう日には、周囲に乱立するラブ・ホテルも雪に溶けてしまい、その風趣は、まさに江戸のころをしのばせるものがあった。
そのとき、たしか、男坂を下って黒門町の〔うさぎや〕へ立ち寄り、名物の〔どら焼き〕を買ってから、花ぶさへおもむいたのである。(「外神田・花ぶさ」)
どら焼きの話に、ラブホテルも雪に溶ける。かくも言葉と食は相性が良い。
(『散歩のとき何か食べたくなって』 新潮文庫)