21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

四方田犬彦『ハイスクール1968』 エピローグ

もう遊びの時間は終わったのだと、私の耳元で誰かが囁いていた。一杯のコーヒーを前にジャズの難解さを理解しようと耳を傾けたり、ユートピアを巡って終わりなき対話を続けるような時代は、政治の季節の凋落とともに幕を下ろしてしまったのだと。60年代には孤立した前衛でありえた芸術は、来るべき70年代には、大衆消費社会の中でほどよい面白さとほどよいスリルを備えた暇潰しに成り下がろうとしており、そこで基準とされるのは、何よりもその場かぎりでの、パッケージ化された驚きであり、面白さでしかなかった。芸術が完全に消費財と化してしまう状況が、もうそこにまで来ていたのである。(第七章)

 エピローグ、「十八歳と五十歳の四方田犬彦の会話」で四方田氏は、「(この本を書いたのは)今君と同じ年齢の人間にとって、1968年という時代がはるかに遠く、想像もつかない遠いものであることが、段々とわかったからさ。それはちょうごきみやぼくにとって、1945年がいかにも遠く、想像が難しいことに似ているかもしれない」、と書いてくれている。だから、根本的なところに共感できないことに、そんなに悩む必要はなかったわけだ。ほんまにそれでいいのかどうかは、わからないけれど。

 ところで、第七章にはどうしても納得できない一節がある。

不思議とこの喫茶店だけは周囲の喧騒と無関係に、さまざまな絵具や色鉛筆、それにクロッキー用の大判のノオトブックなどを並べていた。私は陰気な授業が終わるとレモン画廊でパスタを食べたり、(314ページ)

はいストップ! わざわざ「ノオトブック」とか書くような、1971年の喫茶店で「パスタ」ってどないやねん。たとえそれが「パスタ」と呼ぶしかない代物だったとしても、ここに「スパゲッティ」と書いていないと、一気にまずそうに見えるし、説得力が落ちる。お前は、「好きな食べ物」の欄に「コロッケ」と書けなくなった、1990年代の小学生か、と。