21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

本田透『なぜケータイ小説は売れるのか』

もうお分かりだろう、ケータイ小説が売れているのではない。実は小説が売れていないのだ。(第四章)

 最近、『電波男』が文庫化されたが、本書は『電波男』や喪男三部作のような著者の魂の叫びとは異なり、ライター本田透としてのルポである。しかし、これが秀逸なできだ。
 ケータイ小説の歴史や、それに頻繁に登場する援助交際、レイプ、不治の病…といった「七つの大罪」、そして『DEEP LOVE』、『恋空』といった作品の梗概をわかりやすく紹介するのみならず(作品紹介は浜村淳の映画解説よりしゃべりすぎだが)、実際のところケータイ小説は誰が読んでいるのか、という考察に入る。結論から言うと、ケータイ小説とは東京ではなく地方で主に読まれているものだという。

「だから、地方都市ではマスメディアが喚起するような華やかな消費は行えない。収入も増えないし、華やかに消費する場も与えられない。
 バブル時代にもてはやされたトレンディ・ドラマの人気が凋落したのも、地方と都心との「消費格差」「情報格差」があからさまとなり、地方の若い世代がトレンディ・ドラマが提供する「世界」に共感できなくなったからかも知れない。」(第二章)

 東京のメディアが流す情報に「リアル」を感じられない層が、自分の半径数メートルで起こっている(ような)「実話」にリアリティを感じる。本書で扱っている「ケータイ小説」とは、主に素人の作家による「実話」系の小説であり、おもに市場で売れているのも、プロの作家がモバイル配信した作品よりこの系統の作品だ。半径数メートルの「実話」にリアリティを感じる読者たちは、非常に容易に書き手の側に回りうる。本書ではさらっと触れられているだけだが、『ウェブ進化論』の梅田望夫氏がケータイ小説を肯定的に捉えているというのは象徴的だろう。本書の結論としては、神話を実話と考えられた前近代のように、ケータイ小説の物語を
「実話」と考えられる読者は、「資本主義社会というニヒリズム」からの救済をそこに求め、「私」という小さな物語を継続するということになる。そしてまた、「私の物語」は容易に世界に配信されていくのだ。
 私も浜村淳なみに書き過ぎてしまった。

(『なぜケータイ小説は売れるのか』 ソフトバンク新書)