21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

D.デフォー『ロビンソン・クルーソー』 (三)

 『ロビンソン・クルーソー』は主人公の名前がタイトルになっている小説である。それは、『Dr.スランプ』なのか、『Dr.スランプ アラレちゃん』なのか、という程度の違いでしかないが、思えばそれは、作家がキャラクターというものを重視したひとつの証拠かも知れない。
 思えば、イギリス文学はキャラクターを生みだすことに長けていた。シャーロック・ホームズも、フランケン・シュタインも、007もイギリス人なのである。フランス文学にも、『ボヴァリー夫人』や『紅はこべ』がおり、主人公の固有名詞がそのままタイトルになる世界文学はめずらしくないが、世界中における知名度の多寡、ステレオタイプ形成力はイギリス文学の比ではあるまい。ハードボイルドの主人公として、フィリップ・マーロウのほうがジェームス・ボンドより魅力的であることは言を俟たないが、知名度においては後者が前者をしのぐだろう。私の専門とするロシア文学に至っては、キャラクター形成の能力は著しく低く、いかにミーチャ、イワン、アリョーシャのカラマーゾフの兄弟がすぐれた形象でも、彼らがドストエフスキー本人、またはその作品の知名度を凌ぐことはない。(そういう意味でも、ボヴァリー夫人フローベールは等価なのだ)。
 まさか18世紀から、デフォーやスウィフト(アイルランド人ですよ!)が、ロビンソンやガリバーをキャラクタービジネスの素材として産みだしたことはあるまいが、ロミオとジュリエット、アリス、くまのプーさんメリー・ポピンズドリトル先生、ピーター・ラビット、そのすべてがイギリス出身であることを考えれば、イギリス人のキャラクター形成力にはシャッポを脱がざるを得ない。(このメンバーに対抗しうる外国人は、かろうじて怪盗紳士ルパン、エイハブ船長、孫悟空ファウスト博士、あとがんばってナウシカくらいか)。
 思想よりも人格を重んじる、などと言うつもりはないが、だれかイギリスにおけるキャラクターの形成について研究してくれないものかしら。