21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

D.デフォー『ロビンソン・クルーソー』 (二)

それは、理性が数学の本質であり根源である以上、すべてを理性によって規定し、事物をただひたすら合理的に判断してゆけば、どんな人間でもやがてはあらゆる機械技術の達人になれるということである。それまで私は道具一つ扱ったことのない人間であった。しかし時がたつうちに勤勉と努力の工夫のおかげで、ほしいものなら何でも作れることを知った。(93ページ)

 ロビンソン・クルーソーは法律家の勉強をしていて、船でも船酔いでまったく使えなかったくらい、実務能力はないはずなのだが、無人島に流れ着くと、なんでも器用に作ってしまう。しかし、それは人間理性の神秘として早めにエクスキューズされている。
 まあ、そのエクスキューズの正当性はさておき、この小説のおもしろさは緻密な道具作りの記述だろう。「城」を作り、穀物を栽培し、山羊を飼育して資産を増やしていくロビンソンの姿は、ロールプレイングゲームの主人公のようでもあり、同時にサラリーマン一代記のようでもある。だたし、その表のおもしろさの裏には、かならずそれらを現実化するための道具作りの詳細が描かれている。たとえば、穀物を作るためには、種モミを保存しておくための甕が必要であり、火を使ってこれを焼く方法を知らなかったロビンソンは、天日で乾かして作成するところから、思考錯誤を重ね、ろくろと火を使っての陶芸に目覚める。この辺が芸が細かく、この小説を2世紀以上たった今でも読ませる原因だろう。しかし、このデフォーの空想力は、あくまで妄想が暴走した結果なのか、緻密な構築力によるものなのだろうか?