21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

本田透『世界の電波男』 第二部

 本田透氏は出世作(?)『電波男』で、宮沢賢治が「萌え」を知らなければ、鬼畜になって「イーハトーヴ30人殺し」を起こしていただろうという、喪男を訪れる「萌え」と「鬼畜」の分岐点という名理論をうちたてた。これはモテるとか、モテないとか、そういう卑近なところのみを語っているのではなく、自らが世界から受け入れられないという自己意識が歩む道を、現代の文脈の中で明確に描いたものと言えるだろう。受け入れられないことを苦に、暴力によってこの世を否定にかかるのか、たとえ空想(脳内)でも、何らかの信じられるものを追求するのか。『喪男の哲学史』では、「神萌え」とか「国家萌え」とか、ややこしい表現によってこのことを普遍化して書いていたが、本書では、これが物語による救済に一本化されている。
 その文脈で『罪と罰』を語るにあたり、ラスコーリニコフとソーニャの物語をこの文脈に落とし込み、「『全人類を救済するイエス』という巨大な物語が近代化というフィルターを経て『家族を救済するソーニャ』という小さな物語に組み替えられた」(220ページ)とするのは些か単純化されすぎているにしろ、大筋あっている、というよりは現代においてはそう理解するしかないだろう。(ドストエフスキーの中では明らかに、「小さな物語」と「大きな物語」は等価であるが、現代においてはちょっと無理がある)。
 しかし、この『罪と罰』論において秀逸な部分がある。スヴィドリガイロフが自分を誘惑する幼女の夢を見て、絶望する場面の解釈である。ここは、もう「萌え」という言葉を使うしかない。

スヴィドリガイロフは、貧乏な少女を拾ってきて自分の言いなりにさせるという行動を脳内でも脳外でも繰り返してきた。その結果、ついに彼の内面で、「萌え」が死んでしまったのだ。