21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

本田透『世界の電波男』 第一部

 ゴールデンウィーク三才ブックスの本なんか読んでていいのかYO! という近代の自意識によるツッコミはさておき、本田透は物語について、完全に「自分のこと」として論を展開できる数少ない(ひょっとしたらただ一人?)の評論家である。前著『喪男の哲学史』(講談社)に続き、物語は「喪男」(モダン、モテない男のこと。哲学者と文学者の総称)が、そこから「願望充足の予感」を得ることによって、現実世界の闇から救われるためのものであり、哲学をモテるための言葉遊びに脱構築して、物語を殺そうとしている「ポスト喪男」の連中は死ね! という趣旨には100%同意できる。
 ただ、まあ、「文学史」と銘打ったわりにはマンガ話が多すぎるのが珠に瑕ではある。物語である以上、大衆文学もマンガも同列、という趣旨にも同意できるのだが、この語り口で本気で文学史をやってくれることを期待して読んだら、出てくる文学は『罪と罰』、『神曲』、『ファウスト』、『未来のイヴ』と予想通りの面々であるというのは、若干悲しい。野球で言うなら、フェアグランドのボールは真正面のライナーしか取らず、ファールグラウンドには尋常じゃない守備範囲を誇っている、という感じだ。(まあ、そこが魅力ではあり、この章で『タッチ』に触れた部分を読んで、私が古本屋で『タッチ』の文庫版を大人買いした事実は否みようがないのだが)。
 ところで余談だが、本田氏の評論本の註の使い方(本文の下、全体の八分の一くらいのスペースに註が延々書かれている)、は出版史に残しても良い大発明であり、すべての縦書き学術書がこの方式に倣えばよいのに、とずっと心の中で思っている。それはさておき、
 「劇場で泣きたい、劇場で笑いたい、私は劇場で生きたいの。つまり、……私はメロドラマが大好きということ」、というのは、私のロシア留学時代のホストマザーのおばあさんによる名言だが、その名言を地でいく名著なので、オタク絵が表紙に大書されていて買いづらくはあるが、ぜひみんなに読んでほしい一冊である。

(『世界の電波男 喪男文学史』 三才ブックス