21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

J.M.クッツェー『夷狄を待ちながら』 第五章

生きとし生けるものは正義の正義の記憶をもってこの世に生まれ出るものというわけである。「しかしわれわれは法の世界に生きている」と私はその哀れな囚人に言った。「次善の世界に。そのことはどうすることもできない。われわれは堕ちた存在なのだ。」(308ページ)

 ここまで書くとあからさまなくらい、「死んだあと」の主人公(=「私」)は饒舌に話し始める。拷問という悪を目の当たりにしながら、しかしそれを無視し続けてきた「私」には、善悪の基準が揺らいでいる、ということも言い訳に過ぎない。夷狄を殲滅しに行ったはずの遠征隊は戻ってこず、街は夷狄に包囲されているらしいが、彼らの姿は見えてこない。いっそのこと彼らによって終末がやってくればよいのだが、その願望さえ満たされないまま、私は自らの生理的欲求と、居残りの帝国軍の横暴を横目で眺めつづけるだけだ。

私は、帝国が安泰なときに自らついた嘘であり、彼は、厳しい風が吹くときに語る真実である。帝国統治の両面であり、それ以上でもそれ以下でもない。