21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

J.M.クッツェー『夷狄を待ちながら』 第四章

日常生活の孤独から独房の孤独へと移行するくらいのことは、思考と記憶の世界を失わずに持ち込めるかぎり、たいしてつらい刑罰ではない。しかしいまになって、自由とはいかに根本的なものであるかを私はようやく理解しはじめている。(194ページ)

 父親の目の前で「大佐」に拷問されて、視力と片足を失った夷狄の娘と暮らす民政官の老人。三章での過酷な旅の末、彼が娘を故郷に逃がしたことにより、逮捕されて、死刑にされるまでがこの章では描かれている。むろん描かれているのは熱帯の国の出来事であり、作者の出身地である南アフリカを想像させるが、権力者は「帝国」と呼ばれ、そしてBarbarianは「夷狄」と訳される世界では、その場所を同定することに意味はあるまい。収奪する側の「大佐」や「准尉」しか固有名詞をもたないこの作品の世界は、世界中のどの国のことをも想像することができる。(「夷狄」という言葉のひびきに、数世紀ほど昔の中国を想像することも可能だ)。
 タイトルから容易に想像されるサミュエル・ベケットはもちろん、クッツェーの作品らしく、物語からは世界中の様々な文学作品が連想される。納得できない審問と処刑からはカフカの『審判』を、「どこかで、いつも、一人の子供がぶたれている」というフレーズからは、イワン・カラマーゾフを連想することが可能だ。思うにクッツェー作品には、いつも「審問」が登場する。(本書での審問はいともあっさりしたものだが、このモチーフは『エリザベス・コステロ』の作家という職業に対する尋問や、『恥辱』のセクハラ事件の尋問などで文学的に結実する)。主人公が「贖罪と償いの余地はつねになければならない」、と呟くとおり、世界中で行われている悪に対する問いかけが、この作家の中ではつねになされているのだろう。困ったことに、初期の作品においては、「審問」を行う側が、積極的に「悪」を行う側であることが多いのだが。

(『夷狄を待ちながら』土岐恒二訳 集英社文庫