21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

古井由吉『白暗淵』 第九話「餓鬼の道」

ある夜の寝覚めには、わなわなと両手を伸べる子供の姿が見えて、間違いなく幼い自分の、あたり一帯の焼き払われた夜の城見かける頃に道端に坐りこんでいると行きずりの避難者の女性から恵まれた、握り飯を受け取る姿にほかならず、ああして手を差し出していたのか、といじらしいような、あさましいような気がして、これまでのすべてがその因果につながるのかと思った。(185ページ)

 さて、この連作短篇の、もうひとつのテーマに生と死があるだろう。そして、生死と不可分なものとしての食がある。食といっても、今日何を食べ、明日何を食べる、といった悠長なものではなく、我が身を充填し、存在の根本をかたちづくるところの食。戦時中、食うや食わずのひもじさを味わった男が、四十の峠をむかえて、急に体重が落ちる。すわ大病か、と静かに焦るが、その実なんともないようだ。しかし、いつも徒にエスカレーターを使わず登っている、地下鉄の長い階段にとりついてみると、寝不足も手伝って、登りきれない。そこで主人公はだれのものでもない声を聴く。「腹が減ると、おそろしくなってなあ、おそろしくなって、やりたくなる」。
 浅ましさのかぎりのような声は、時系列の各所で、戦後の焼け跡を歩く男や、高度経済成長の企業戦士の声としてきこえる。食えないこと、食わないことの空虚が、また同時に食べること、繁殖することの空虚としても聴こえてくるのだ。この小説の題を「餓鬼の道」としてみれば、どうしても仏教めくが、かならずしも色即是空・空即是色の境地だけを語っているのではあるまい。食べても満たされない、食べなくても満たされない。この小説はそんな感性と存在のずれ、あるいはもっと有り体に言えば、意識と身体のずれを語っている。

お前は生まれていなかった、死んだ母さんとも、まだ出会ってなかった、と父親は答えた。(「撫子遊ぶ」)