21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

J.M.クッツェー『ペテルブルグの文豪』 第十八章

しかしチェルヌィシェフスキーの向こうには福音書がある。イエスがある――一団の弟子を集め、死の使いに彼らを走らせる無神論者ネチャーエフの偽物と同じくらい、独自に鈍く堕落したイエスの偽物がある。かかとの周りで踊る下劣男の群れを引き連れた笛吹き。「彼女は彼のためなら何でもする」とマトリョーナは下劣女カトリのことを言った。何でもする、どんな屈辱にも耐える、死にも耐える。恥はすべて焼き払われたのだ。(268ページ)

 父と子を大きなテーマとした、クッツェー『ペテルブルグの文豪』には、精液のモチーフが散在する。ふと、スピノザが嫉妬に関する定理の中で描いた他人の精液と、澁澤龍彦のその恣意的な引用を思いだすが、ここでの意味はもうすこしナイーブだろう。それは、父による身勝手な「インスタント子の素」であると同時に、聖母の胎に舞い降りた聖霊でもある。
 作家とのセックスのあとの、架空の愛人アンナ・セルゲイェヴナ。「「そんなにも救い主の誕生を望んでいたの?」と彼女はつぶやく。そして彼が何のことかわからないのを知ると、「まるで精子の川よ。あなたは確実なものにしたかったのに違いないわ。ベッドがずぶぬれ」」(279ページ)。彼女はたった二人にとっての救い主を産もうと思っている。しかしドストエフスキーにとって、精液は悪霊であり、それは聖なるものを冒涜するに過ぎない。(この意味で、精液はスピノザの定義に回帰する)。同時に彼は、死んだ子どもの精液が宙に浮かび、世界と交感するような場面すら妄想する。だが、あくまで本作において彼の「精液」は、終章にスタヴローギンという悪魔を生み出すに過ぎない。たとえそれが、目を閉じている神を振り向かせるためだけのものであるとしても。

「ネチャーエフが信奉者を得たのは、その霊が中に入り込んだためなんです。彼らが信奉するのはその霊であって、その若者ではありません」(第五章)