21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

J.M.クッツェー『ペテルブルグの文豪』 第十五章

そのとおり、私はコペルニクスではない。天を見上げても私には、我々が生まれたときに我々を見おろしていた、そして我々が死ぬときに我々を見おろしているであろう星が見えるのみだ。我々がどういう風に変装し、隠れ住む地下室がどんなに深かろうと、関係なく見おろしている星々が。(230ページ)

革命の地下室で、ラスコーリニコフを引用しながら、革命について熱弁するネチャーエフに対し、作中のドストエフスキーは罪の不可避性、あるいはクッツェー独特のリアリズムを語る。われわれは、この世界の外側から常に見られている。フィクションは読者によって観察され、読者はフィクションによって観察される。
 「この小さな女の子は(中略)もしきれいに洗ってやって髪をきちんと切って新しいドレスを着せてやれば、今夜、まさしくこの今夜、きみの五ルーブルの投資で百ルーブル稼げる」。無垢な子どもを穢す、という、ドストエフスキーの考えうる限りの聖物冒瀆は、それがフィクションの中で行なわれようと、現実におこなわれたのと同罪となる。外から見ている存在は、複数の星は、神は、読者は、それにたいして揺さぶられなければならない。

今や神は話さなければならない。もはや神は黙っていることをあえてやめなければならない(第二〇章「スタヴローギン」)