21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

F.M.ドストエフスキー 『地下室の手記』第一章

しかし、仮にその敵意、悪意さえも俺にはなかったとしたら(なにしろまさに俺の話はそこから始めたわけだが)いったいどうしたらいいのか。俺の敵意は、例の呪わしい意識の法則の結果、化学分解を起こしてしまう。見る見るうちに対象は消え失せ、論拠も蒸発し、罪を着せるべき相手はみつからず、侮辱は侮辱でなくなり、誰を責めるわけにもいかない歯痛のような宿命となり、とどのつまりは、またしても同じ結論――つまり壁をいやというほどぶん殴るしかなくなるのだ。(38ページ)

 本書の訳者である安岡治子先生は、私が不義理をしてきた恩師である。昨年の夏、せっかくこの本を送っていただいたのに、それを半年も読まず、また不義理を働いた。
 それはさておき、この訳は地下室人の一人称を「俺」と訳している。『地下室の手記』が自意識の物語であることを考えれば、それはフィリップ・マーロウの一人称を「おれ」と訳す以上の大冒険である。従来の訳では、たいてい「私」と訳されてきた。本書が世界三大ひきこもり小説のひとつであることを考えれば(あとの二つは何か知らないが)、「僕」という一人称はありえても、「俺」はアクティヴに過ぎるような感すらある。
 しかし、第一章で「俺」の独白につきあってみると、この小説のあらたな側面が見えてくる。多くの論文で語られるように、ドストエフスキーはおそらく、チェルヌィシェフスキーら空想社会主義陣営への、偽悪的な反論としてこの小説を使っている。その下心は、「私」口調を読めば読むほど鼻につくのだが、「俺」で訳されてみると、この文章はかれらの科学的なユートピア、「水晶宮」への自爆テロではないかと思えてくる。人間の理想をこきおろしながら、どこか人間を擁護したがる地下室人に、わずかながら革命家の匂いを感じるのだ。
 パンク、アナーキスト、ひきこもり。「俺」を名乗る地下室人は、もはや仮定法の堂々めぐりに閉ざされたただのひきこもりではない。かれは固有のイデオロギーに参入できないテロリストであり、自傷癖のあるパンクなひきこもりなのである。

Oh, Lord God have mercy
All crimes are paid
And when there's no future
How can there be sin?
(Sex Pistols "GOD SAVE THE QUEEN")

(『地下室の手記安岡治子訳 光文社古典新訳文庫