21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

J.M.クッツエー 『エリザベス・コステロ』第六章

よい解説のついた翻訳小説に出逢ったとき、読書感想文はどうしてもそれに引きずられざるを得ない。訳者の鴻巣友季子さんは、本書の解説で以下のように述べる。

「作家にとって最もおそろしい地獄、あるいは煉獄とはどんなものか? コステロにとって、それはクリシェ(紋切り型)ばかりでできている"文学のテーマパーク"であるらしい」(220ページ)

 キャスター付きのスーツケースを転がしながら、エリザベス・コステロが辿り着いた場所は、カフカ風の門番と、カフカ風の裁判官のいる「審判の門」である。彼らは彼女に、「お前の信条は何か?」としつこく訊ねるが、作家としてのわたしは、「見えざるもの」の秘書であり、信条など持たないのだと、コステロは宣言する。巻末解説を読んでから、本章を読む、あるいは再読する読者は、この章をパロディ小説としてしか読むことができない。(ドストエフスキー・ファンなら、「チケットはお返しする」、というフレーズに出くわして北叟笑むだろう)。もはや深刻な表情をして没入することはできず、第四章とおなじドタバタ喜劇を若干うんざりして眺めながら、末部にコステロが発する、「文学など呪われろ」というセリフを、彼女と同時に呟くようになるのだ。
 かように本書の第六章は、そして訳者解説は、見事としか言いようがない。

もし来世が――それがこういうものなら、ひとまず来世と呼ぶことにしよう――もし来世がたんなるインチキにすぎず、一から十までシュミレーションだというなら、なぜそのシュミレーションはこうもことごとく失敗しているのか?(187ページ)