21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

L.トルストイ『戦争と平和』第一巻第一部

 『戦争と平和』を読みかえしている。

 そう言うと、幾度も読んでいるようだが、実は高校生の頃に読んで以来の二度目だ。『アンナ・カレーニナ』は数回は読みかえしたのに、ずいぶんバランスの悪い話ではある。理由はいくつかあるだろうが、単純に登場人物とプロットが入り組んでいて、高校生の自分が話に入りこめなかったこと、そして、中心的なペルソナであるピエールやアンドレイ公爵に感情移入できなかったこと、を否定はできない。

 プロットが理解できなかったのなら何度か読みかえしてみるべきだ。それだけで小説の解像度はぐっと上がり、気づかなかった魅力に気づくことがある。40を過ぎて当たり前のことに気づくようになった。そんなわけで、20年越しの課題として、複数の翻訳を参照しながら、この本をじっくり読みかえしてみたい。

 翻訳は新潮文庫の工藤精一郎訳と、岩波文庫の藤沼貴訳を参照した。光文社古典新訳文庫も電子版が早くに出るようなら見てみようと思う。

 第一巻第一部は25の節から形成されるが、大きくは3つの場面に分けてよい。一つ目はペテルブルク女官のアンナ・シェーレルの夜会(1〜6)、二つ目がモスクワのロストフ伯爵家の名の日の祝い(7〜21)、三つ目がボルコンスキイ公爵家の領地「禿山」での、アンドレイ公爵の出征の場面(22〜25)だ。

 「平和」パートの章だが、キャラクターとプロットはドラマチックに絡み合っている。とくに瀕死のべズーホフ老伯爵の遺産を巡る対決がスリリングだ。

 エカチェリーナ2世時代の重臣にして、プレイボーイであったべズーホフ伯爵には嫡出子がいない。一方、20人はくだらないと言われる私生児の一人が、パリ遊学帰りの主人公、ピエールである。冒頭のシェーレル家の夜会は、ピエールの社交界デヴューの日。夜会にはもう一人の主人公アンドレイ・ボルコンスキイ公爵夫妻のほか、顕官ワシーリイ・クラーギン公爵と子供たちが登場するが、思いのほか重要なのが、アンナ・ミハイロヴナ・ドルベツカヤ公爵夫人でだろう。没落貴族として描かれるこの人、シェーレル家の夜会では、ちらっと登場してワシーリイ公爵に息子の地位を世話してくれるよう頼んでいるだけなのだが、舞台をモスクワに移すと、宮廷政治家のワシーリイを向こうに回して大活躍するのだ。世間知らずのピエールをなし崩し的に味方に取りこむに止まらず、老伯爵に耳打ちして、相続権を狙っていたクラーギン家の三姉妹(ワシーリイの従姉妹)の評判を落としめ、遺言を書き換えさせたと思しい。一方で、息子のボリスの方は、ワシーリイ公爵の口利きで有利な地位についているのだから、公爵もいい面の皮だ。伯爵の死の場面の土壇場で、遺言を書き換えさせようと焦るクラーギン家の長女と対決する姿には、清々しさすら感じられるだろう。あまつさえ、ボリスの支度金は、同時進行の泣き落としで旧友のロストフ伯爵夫人からせしめている。このように、彼女を中心に展開される社交界のかけひきが、ひとつの読みどころ。

 権謀術数のこのプロットが流れる中、「社交界などに意味を見出さぬ」と意識高い系を気取っているのがアンドレイ公爵である。イケメンの彼はニート気質のピエールにも影響力を持っているが、二人と社交界のその他大勢を区別するのは、とどのつまりナポレオンという存在を認めるか認めないかという一点だ。アンドレイに思想はない。早く戦場に出てナポレオンのように活躍したい、とぼんやり考えているだけで、「結婚すると男は不自由になる」とか言っている若干、痛い人でもある。ピエールはこの友人に感化されるのだが、一方で悪い仲間との遊び(博打や娼館通い)も止められない、あまつさえ酔って警察署長を熊にくくりつけて川に流し、モスクワに追放される、という、すごくダメな人として描かれている。

 ピエールが魅力的なのは、アンナ・ミハイロヴナに翻弄されて、父親の遺産争いに巻きこまれても、一切の欲を見せないところだろう。クラーギン家の三姉妹は、遺産争いのライバルになる可能性がある彼をいじめているのだが、それも恨みに思うでもない。(まあ、モスクワに追放された背景を考えるとしょうがないかも知れないが)。

 この二人を第二軸とすると、三つ目の軸は歳若いロストフ家のニコライ、ナターシャ、ペーチャの兄妹と、その相手役のソーニャ、ボリス(・ドルベツコイ)の恋愛模様である。温室でキスをする場面はなかなかに印象的だが、一筋縄ではいかないことに、割とこの恋愛うまくいかない。

 キャラクターが多いので戸惑ってしまうが、配置がわかるとこの導入部分はすごく緻密に組み立てられている。人物たちの経済状況や家庭背景はもちろん、背丈や身だしなみまで精密に設定されていることがよく分かる。何回読んでもよい導入である。