21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

M.プルースト『失われた時を求めて』 「スワン家のほうへ」(2)

ブログを書こうと決意すると、何らかのバチでも当たるのか、前回の更新をしてから日付を跨がないと家に帰れないような日々が続いていました。それで、ゴールデンウィークは、人生の一大イベントをやったりしていたもので、何と1か月で数十ページしか読み進んでいませんが…前回何を書いたのかも忘れましたが、気を取り直して読み続けましょう。ちなみにiPadのキーボードを導入したので、今回はそれで書いております。さて、話は随想がコンブレーに落ち着いたあたりから。

私が、のちに正確に知ったスワンから、記憶のなかでこの最初のスワンに移ると、まるでひとりの人と別れて、それとは明確に異なる別人に会いに行くような気がする。(中略)この最初のスワンは、私にはいまも呑気な余暇の時間に充たされ、大きなマロニエの木や、フランボワーズの籠や、ひと茎のエストラゴンの匂いを放っているのである。(57ページ)

遅々として進まぬ読書のせいで、噂のマドレーヌのくだりには、まだたどり着いていない。しかしながら、記憶が味覚や嗅覚といった、五感のさまざまな部分に結びつく、という描写は随所に見られる。上記の部分も、実際には社交界で大物になりつつあったスワンのことを、主人公の一家では、「ただ家によく遊びに来るオッサン」とみなしていた、という部分だが、そういった記憶を語るに当たっても、自宅の庭(マロニエ)と手土産(フランボワーズ)とディナーの一品(エストラゴン)が、さっとかき混ぜられて格調高い仕上がりだ。
スワン氏の人物像と並んで、このあたりで、もうひとつ語られているのは、いかにしてお母さんにお休みのキスをしてもらうかという、けっこうどうでもいい話である。ちょっと、記憶を定着させるためのネタとしては、あざとい気すらする。しかし、そのネタで下のような張り詰めた描写ができてしまうのである。やはり只者ではない。

外では、すべてのものが、これまた貼りついたように動かず、月の光を乱すまいと、じっと息をひそめている。月の光があらゆるものの前面に、本体よりも濃密なくっきりした影を伸ばすので、本体は影のうしろに後退したかに感じられ、風景は折り畳んであった地図を広げたみたいに平らに拡大されている。(中略)もの音ひとつ呼吸できないほどのこの静寂のなかでは、どんな遠くの物音でも、向こうの町外れにある庭園からやって来たはずの物音でも、くっきり「仕上げ」られ、細部まで聞きとれるから、ひとえにピアニッシモのおかげで遠くの音に感じられるのだ。(83〜84ページ)