21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

M.プルースト『失われた時を求めて』 「スワン家のほうへ」(1)

かりに眠れないまま明けがた近くになり、本を読んでいる最中、ふだん寝ているのとずいぶん違う格好で眠りに落ちたりすると、片腕を持ちあげているだけで太陽の歩みを止め、後退させることさえできるので、目覚めた最初の瞬間には、もはや時刻がわからず、寝ようと横になったところだと考えるかもしれない。,(1巻29ページ)

 ついに読みはじめたのです。『失われた時を求めて』。やっぱり文学やったことあります、という人間にとっては必須科目でしょう。しかも、こんなタイトルのブログをやっていて。ですが、正直、読んだことはありませんでした。それを、サラリーマン生活が10年を過ぎて、かつての文学青年の匂いも、もうそろそろ加齢臭に変わろうかという頃に読もうとしています。いまだって仕事も忙しいのに・・・わずかに、この小説を読むにふさわしいことと言えば、パリに住んでいる、ということくらいでしょうか。すこしでも読み続けられるように、ここに読書状況をあげて行くことにします。
 「長いこと私は早めに寝(やす)むことにしていた」ではじまる、有名な冒頭部分が、何を書こうとしているのかはまだ分からないけれど、上に引用した部分などをながめてみれば、時間の因果律のなかでの、自我の位相、あるいは寝相(?)が描かれているように思う。あやふやな時間の流れのなかで、自同律の不快を担保するものは、寝ている自分の身体感覚だけ、とか書くと、はやとちりに過ぎるだろうか。
 しかし巨匠は自分の寝相すら格好よく書くなあ、と思う一方で、ミもフタもないこと言えば、ここに書かれている自我の不安定さは、いまの私には身体感覚として理解できない。これは私が世俗にまみれたのか、それともそもそもの感性的に劣っているのか分からないが、まずひとつの試みとして、ここを分かったフリして解決せずに、分からないことを認識したまま最後まで読んでみようと思っている。・・・続くかな?

とはいえ部屋のなかにわが自我を満たすことで自我を意識しないのと同じように部屋も意識しないですんでいたのに、このように部屋のなかに闖入した神秘と美とが、私にどれほどの違和感をひきおこしたかはとうてい言い表せない。習慣の鎮静作用が利かなくなり、実に悲しいことを考えたり感じたりしたからである。(同38〜39ページ)

吉川一義訳 岩波文庫