21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

禁煙の話(3)

これにくらべて、最初にあげた立場、つまり世界を捨てるという立場にあっては、現実生活への影響のしかたは、まったくちがう。永遠の救いへの郷愁は、地上の生活のあゆみ(コース)と形態に対し、ひとを無関心にさせる。地上の生活にこそ、徳が育ち、保たれるはずだというのに。ホイジンガ『中世の秋』「世界の名著67」)

 禁煙21日目。禁ニコレット10日目。
 みなが「ヤマ場」であると言う三週間目を終えて、なんとなく、身体的な離脱症状はおさまってきたようである。仕事をしていて、ふっと電池が切れるように、手が動かなくなる時間帯も、だんだん遅くなって、今日は19時までもった。これが先週は、16時前後だったわけで、そのあと仕事するフリをする手間も省けてきた。とはいえ、確実に朝の3時とか4時には一度目が覚めて、うまくしないと、そのまま眠れないようなこともあるので、油断はならないのだが。
 どちらかというと、「節約疲れ」ならぬ、「禁煙疲れ」で、一本吸ってみたくなることの方が多いようだ。吸ってはマズいので、ふだん食べないポテトチップとか食べて、「節約疲れ」を誤魔化してみる。うまい、うまくないより、背徳感が煙草に似ていて、ちょっといい。これまで禁煙太りしている自覚はなかったが、これから本格化するのかも知れない。
 ところで先日、禁煙を「泣いて馬謖を斬る」ことにたとえたが、考えてみると、思っていたより、煙草と馬謖は似ているのかも。

劉備は死ぬまで、「馬謖は口先だけの男だから、重用するな」と言い続けた。
・それでも、諸葛亮馬謖好きだったので、重要な地点の防御を任せた。
・その結果、馬謖のせいで多くの人が死んだ

なんか馬謖なんか早く斬ってしまえ、という気になる。
 しかし、歴史上において、馬謖の処刑はほんとうの正解だったのだろうか? 蜀はそののち、人材不足によって滅びるのである。街亭の戦いで敗北を知り、人として一段階成長したはずの馬謖は、その後の蜀を救う人材になったのではないだろうか? また諸葛亮の側も、愛ゆえの濫用ではなく、もっと時と場所をわきまえて、馬謖のよさが発揮される使い方を知ったのではないだろうか? そもそも光栄のゲームだったら、処刑する選択肢すら出てこないだろう? あのとき馬謖を捨てたのは、一生の過ちではなかったか?
 ・・・「馬謖」をすべて煙草に置き換えると、だいたい現在の私の脳内会話に等しい。ニコチン依存の神は、「煙草なくて、そんな集中力じゃ仕事できないよ。仕事で失敗したら、さらにストレスがたまって、むしろ死期を早めるし、第一、好きな本すら読めなくなっているんじゃ、生きる意味がないんじゃない?」と語りかけてくる。まさに、馬謖処刑前の諸葛亮の気持ちなのである。
 ここは、悲愴なポジティヴシンキングでいこう。仕事は「馬謖一人分くらい」できなくなっているけれども大丈夫だし、人はいつか死んで、蜀もいつか滅びるけれど、馬謖をエコヒイキして諸将の反逆を招くよりは長続きする、のであると。
 このブログで、今日よりも多く、「馬謖」と書くことは、二度とないであろう。