21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 「無常という事」

嘗て、古代の土器類を夢中になって集めていた頃、私を屢々見舞って、土器の曲線の如く心から離れ難かった想いは、文字という至便な表現手段を知らずに、いかに長い間人間は人間であったか、優美や繊細の無言の表現を続けて来たか、という事であった。文字の時代なぞ、それからみれば、ほんの未だ始まったばかりだと言えよう。ただ、文字の発明が、この期間を大分長いものと思わせている。文字の発明以前でも、この無言の表現は、語られる言葉の下位に立つ事を甘じて来たに相違ない。土器を作るものは、実用的目的に間違いなく従い、土と火の自然の性質にもっと間違いなく随順し、余計な心使いをしなかった御蔭で、人間の性質のうちにある言うに言われぬ或る恒常的なものだけを表現して了うという事になった様である。不安な移ろい易いものは、冒険や発明や失敗や過誤を好む言語表現に、一番適するのではあるまいか。(「偶像崇拝」)

 「無常という事」という一文を、大学受験の時に読んでいたことは間違いないが、今回、この本を手にとったのは、前回も話題にした『安徳天皇漂海記』の参考文献として、小林秀雄の「実朝」があげられていたからだ。その「実朝」を含んでいるのが、この評論集である。
 「実朝」自体も楽しかったのだが、いまになって小林秀雄の文章を読んでみると、懐石料理のような文章だと思う。つまりは「食材」としての語彙がなんとも多彩できらびやかであるのみならず、その料理がまた洒落ているのだ。・・・とかなんとか言っておいて、私は懐石料理をきちんと食べた記憶がないので、ひょっとすると温泉旅館の夕食のようなものを想定しているかも知れないが、まあ、それは読んでいる私の側が悪いのであって、すくなくともカツ丼のようにシンプルではない、ということは言えると思う。
 とまれ、若干の無茶があっても「懐石料理」と呼びたい所以は、受験勉強の教材に使われるとおり、小林秀雄の文章には必要以上に難しい語彙が使われていないけれど、ひとつひとつの言葉が、まるで初めて口にするような感触を持っている、という点である。最初に引用した文章から言えば、「冒険や発明や失敗や過誤を好む言語表現」、と言った部分だ。ここでは、体系的な文章で語り得ぬ実在のようなものと、言語表現が対置されているが、それを言うにあたって、「冒険や発明や失敗や過誤」と、普通のようでいてまったく普通には思いつかない四語が連ねられていることに凄みを感じる。たぶん、これらは「理論」というものの性質を言っているのだけれど、なんとなく「人生」について言っているようにも思わされる。言葉の料理の仕方が、そういう切り口なのである。
 さて、この地点から「無常という事」を振りかえってみると、この文章では「無常」のことを、「人間の置かれる動物的状態」と言っているが、この「動物」はむろんウマやヤギやロバやラクダではないだろう。死んでしまった人間だけが「動」じない「常」の存在で、生きている人間はそこにいたる前だ、と述べられていることから考えれば、やはり「動物」とは人間への進化の途上にある存在ではなく、「動く」ものだと考える必要がある。そうすると、「冒険や発明や失敗や過誤」というのは、「動く」ものの一連の所産として、納得するしかない。
 なんとなく話がタームに寄ってしまったが、「無常という事」、あるいは文章というものを理解するとき、そこに書かれている内容よりも、書こうとする作者の「包丁捌き」の方が重要なのではないかと思わされる、そういう読書体験だった。

(『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫