21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

夏目漱石『彼岸過迄』 「停留所」

その上敬太郎は遺伝的に平凡を忌む浪漫趣味(ロマンチック)の青年であった。かつて東京の朝日新聞に児玉音松とか言う人の冒険談が連載された時、彼はまるで丁年未満の中学生のような熱心を以て毎日それを迎え読んでいた。その中でも音松君が洞穴の中から踊りだす大蛸と戦った記事を大変面白がって、同じ科の学生に、君、蛸の大頭を目懸けて短銃(ピストル)をポンポン打つんだが、つるつる滑って少しも手応がないというじゃないか。その内大将の後からぞろぞろ出てきた小蛸がぐるりと環を作って彼をとりまいたから何をするのかと思うと、どっちが勝つか熱心に見物しているんだそうだからねと大いに乗気で話した事がある。するとその友達が調戯(からかい)半分に、君のような剽軽ものは到底文官試験などを受けて地道に世の中を渡って行く気になるまい、卒業したら、一層の事思い切って南洋へでも出掛けて、好きな蛸狩りでもしたらどうだと云ったので、それ以来「田川の蛸狩」という言葉が友達間に大分流行り出した。この間卒業して以来足を擂木(すりこぎ)の様にして世の中への出口を探して歩いている敬太郎に会うたびに、彼等はどうだね蛸狩は成功したかいと聞くのが常になっていた位である。(「風呂の後」4)

 トーマス・マンの『魔の山』が滑稽小説である、ということに、さして異存はないけれど、やたらとそれを主張されるのは困ったものである。下品なロシア人夫婦が座る、食卓の一部を「下等ロシア人席」と呼ぶような、他愛もないのはよい。しかし、死の間際の病人が、恐ろしさのあまり足をばたつかせるのに向けて、「そんな格好はお止めなさい」と言う、現実であれば場がシーンとなってしまうような笑いのセンスは、強要されると一向に面白くなくなってしまうものだ。ええと、これは、笑えばいいのかナア、と思いながら、苦笑いするのが調度良い。
 文学の要諦、これスベリ芸と見つけたり。と、未だ誰も賛同してくれないが、このブログでは書き続けてきた。もうすこし単純に言うならば、100人が100人涙を流したり、「すべらんなー」の一言のもとに一同大爆笑できたりする、ということには、何かしらの違和感が残るのである。いま一つ共感できないような内容に、主人公たちが固執して、本気で駆けめぐっているような虚しさに出逢うとき、なんだか文学を読んでいるなあ、という気がしてくる。まあ、この意見にみんな賛同してくれるようだと、それはそれで気持ち悪いのだけれど。
 さて、冒頭に夏目漱石の笑いを引いたが、これは誰でも笑える。漱石のたたみかけるような話芸は圧倒的で、マクラからオチまで一息に言うので、呑み込まれてしまって私などはしばらくはこういうしゃべり方でしゃべろうかしらん、という程影響を受けてしまう。しかしながら、この蛸狩の田川くんも、大学卒業後、勤め口が見つからないで、駆けずりまわって自分のやるべき事を探している、という意味では、随分淋しい人である。『吾輩は猫である』の有名な、「呑気と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする」、というやつだ。
 その田川くんが、就職活動のついでに、なぜか引き受けさせられてしまった探偵業に、文字通り東奔西走するのがこの次の章、「停留所」である。細面の男の人相風体、電車から降りる筈の時間だけを告げられて、この男の行状を探るように言いつけられた彼は、土壇場になって、小川町の停留所が西と東の二箇所あることに気づき、汗だくになって東と西を行ったり来たりする。このドタバタ劇はそれほど面白くないけれど、よくあること、として共感できなくもない。つまらないけれど、人から頼まれた仕事、というのはそれなりに人を焦らせるものだ。
 ただ、読んでいて例のわくわくさせる「上すべり感」を与えてくれるのは、大連に立った友人、森本の遺したステッキである。もとより森本は、第一章でいなくなった時点で、ステッキを敬太郎に譲る、と手紙を寄越しているのだから、このステッキはもらっておくか、いらなければ気にしないでもいいはずなのに、なんとなく友達の生死を象徴するように思えて、触ることすらはばかられる。はばかられるなら、はばかられるままで終わっていい筈だが、占い師の婆さんにみょうな謎をかけられたことから、今度はステッキが自分の運命を握るような気がしてしょうがない。そして、「肝腎な」探偵に出かけなければいけないほんの数十分前に、泥棒でも働くように、大家の目を盗んで、このステッキを持ち出すのである。
 田川敬太郎のステッキへの思い入れは、まったくもって理解できない。ただ、そこのスベッた感じが、このどうでもいい話を小説にしている、とすれば言い過ぎだろうか。

(『彼岸過迄』 新潮文庫