21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

W.フォークナー『アブサロム、アブサロム!』3

彼女は時間を封じこめてしまったようだった。彼女は、蜜月もなければべつに変わったことも起こりはしなかった過去のある年月を、それが実際にあったかのように措定したのだ。するとその歳月をとおして、(現在では)五人になった顔が、あたかも真空中に掛けられた肖像画のように——(五人とも、あらかじめ予定されたその全盛期に写しとられ、思考や経験はすべて奪われており、書かれた当の本人たちはずっと昔に生まれ死んでいったので、彼らの歓びや哀しみは彼らが喜怒哀楽を演じたほかならぬその舞台においてすらいまではもう忘れられてしまったにちがいない、そんな肖像画のように)——いわば生命なき永遠の花ざかりといった趣きを帯びて垣間見えたのだ。これはしかし、ミス・ローザが、べつにエレンの話を聞いていたわけではなくーー彼女は最初の一語を、おそらくはチャールズ・ボンという名前を聞いただけで、あの画像を幻視したのだったがーー十六歳で生涯独身たることを運命づけられたミス・ローザが、この明るく輝く幻の画像の下に坐っていたあいだの出来事なのだ。(84ページ)

 「鶏頭の十四五本もありぬべし」。と、言われたとき、読者はタテ、ヨコ、奥行きの、どこまでを想像すればいいのか。作家論をもちだせば、この句の読み手が、病床に横たわっていることを想像し、低いカメラ位置から、その花が14本なのか15本なのか分からないくらいの奥行きを想像することは可能である。しかしながら、言葉がいっていることはあくまで奥行きのない、平面的な画面で、14本目と15本目が見事に重なり合っている場面ではないか、と思う。
 まえに『響きと怒り』を読んだときから思っていたのだが、フォークナーは読者に、四次元空間を想像することを求めているのではないだろうか。つまり、時間があたかもなんらかの手法を持って画面に投射されている絵画のように。引用部は、伊達男チャールズ・ボンを含めたみずからの家族の姿を、エレンが非・時間的な肖像画として描いていた、あるいは時間の束縛を逃れた男、不死鳥のようなボンの姿を、会ったこともないミス・ローザが幻視していた、というコンプソン氏の語りの部分である。我ながら語りの構造が複雑すぎて何を言っているのか分からない。
 『アブサロム、アブサロム!』の第3章では、時間がときおり水のイメージで描かれる。サトペンと結婚したエレンの一家は、みずからの意志で、言い換えれば意志を持たないことで、金持ちの生活をたのしみながら時間を止めていたのだが、その間にも「時間」という名の水は湖に流れこんでおり、満ちるにつれて遊泳者たちを押し流しはじめるのだ、と。これは非常にまっとうで、分かりやすい時間観にささえられている。つまり、ここで物語は、多少停滞するにせよ、原因から結果の方向に進んでいる。
 ただし、この比喩がふつうに見えるのは、ここに登場している人物、サトペンの妻エレンと、ヘンリー、ジューディスという子供たち、ジューディスと結婚すると目されたボン、そしてサトペンが、すべて「時間」の存在を否定していることによる。つまり、彼らにとって原因と結果や、それによって生じる経験というものは意識されていないので、彼らをフォークナー風の四次元絵画で描いた場合、あたかも三次元のように見えるのだ。
 だが、視点人物(と、言っていいのかどうかは定かではないが)のクエンティンや、その父コンプソン氏、くわえてミス・ローザといった存在は、自分が生きてきたわけでもない時間まで含めて、土地の経験が体内に積もってしまっている。ゆえに、彼らの語りは現在過去未来を前後してとても分かりにくい。『響きと怒り』で、クエンティンは「あった」経験と「ありえた」経験の二つに追われて苦しむわけだが、これは四次元空間を基本の一画面として、さらに「語り」でそれを流していく、としないと理解できないように思う。

(『アブサロム、アブサロム!』 篠田一士訳、河出書房新社2008年、原著1936年)