21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

開沼博『「フクシマ」論』

もう一つ生まれてくるべき疑問は「3・11の間際まで、そこはいかなる姿を見せていたのか」という問いだろう。3・11以前の福島原発は歴史のなかで無視され、なかったことにされてきた存在だった。それはとりわけ、原発と社会の葛藤が明確になった九〇年代以降においてもなおさら顕著だったと言える。ここ十年で見れば、地元新聞社や悪化する財政への関心などを除いて、アカデミズムもジャーナリズムにもその地の記録はないと断言してもよい。そういった3・11間際の、今となってはもはや誰もとりかえすことができない状況を明らかにしたのが第二章「原子力ムラの現在」だ。手前味噌も甚だしいが、これは3・11間際のフクシマを記録した唯一、最後の研究である。(「フクシマ」を語る前に)

 また映画の話で恐縮だが、Michael Winterbottom監督の「In This World」という作品がある。パキスタン北部に暮らすアフガン難民の少年が、もう一人の青年と、ブローカーの力を借りてロンドンに行くまでを描いた物語で、ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞した。ウィンターボトムは、主役の少年を難民キャンプで見つけ、ロードムービーの途上となるイラン、トルコ、イタリアでも、本職の俳優ではない、現地の人びとを使って劇映画を撮った。硬質なテーマ性と、実験的な手法にもかかわらず、この作品はウィンターボトム作品のなかでも、群を抜いて見やすく、おもしろい。おなじ監督のロードムービーでも、屈折したところだらけの処女作「バタフライ・キス」よりも、よっぽどハラハラしたり、主人公に感情移入したりして観ることを許すのだ。一方でそれは、必要なお金がどこかから出てきたり、オレンジの貨車にかくれてイランをビザなしで横断するのに、服がやたらと綺麗、というような「作りもの感」を持つことは否めない。
 最近、私がどうしても捉えられてしまう宣伝文句に、「現実を直視した」というのがある。たとえば伊藤計劃は、『虐殺器官』において、「9・11以降の世界を直視した」と評される。いま、この時間を生きている私たちが、同時になにを踏みつけにしているか、あるいは、この世界はいかなる危機の上にバランスをとって立っているか。そういったことに眼を閉じずに、作品の中にとりいれた、というような意味であると思う。むろん、末期癌の病床で『ハーモニー』を完成させた作家が描くチェチェンが、物質的なリアリティをそなえているか、ということは問題にされていない。
 1年前の震災を、どのような意味でも体験しなかった(モスクワ在住だったので、)私が、この本を手に取ったのは、なにかしらの形でそこに、フクシマに、起こっていることを見たい、という欲望によるものだ。エネルギッシュな前文と後書きを備えているものの、この本はしかし、「修士論文」のパワーバランスの上に乗るものであった。つまり、当たり前なのだが、ルポルタージュではなく、先行研究批判と一時資料収集、そしてフィールドワークによるものとして、社会学、という文脈の中での批判に自身を備えたものとして。
 いったい私がなにを言いたいのかと言うと、ただ単に「見る」というようなことは行為としては成り立たないのだ。ウィンターボトムは映画を撮ったのであり、伊藤計劃は小説を書いた。そうしてできあがったものと、あるいはせいぜいその「視線」のありようが、はじめて価値を持つのであり、批判の対象となりうる。その意味で本書は、あくまで社会学の論文であり、書かれた論文として評価、批判されるべきだろう。著者には、ぜひ博士論文を書いてほしい。いまのところ、「見る」ことに価値基準がおかれているように思えるからだ。

(『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』 青土社、2011年)