21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

大庭みな子「寂兮寥兮(かたちもなく)」 七

「きっと、世間の人たちは、あたしたちが、夫と妻に裏切られたあたしたちが、当然の成り行きで慰め合っていると思うわよ。もし、かりに、あの人たちがあたしたちのことを知っているにしても」
「そんなところだろう。女房はいつもぼくをずる賢い男だと言っていたよ」
「あたしは、ずる賢い人が好き」
 万有子は彼の妻に反論する口調で言った。しかし、彼女はやはり彼がずる賢くないのに安心しているらしかった。
「作家は悪人でなければだめよ」
彼女は言い直した。
「しかし、同時に善人でもなければならない。そいつが至難の業だ」
「では、悪いことはあたしにやらせなさい」
彼女は叫んだ。
「あたし、あの人たちが生きているうちにあなたと姦通することを夢みていたのよ」
姦通などという言葉は今では死んでしまったから、詩語になるであろうかと声に出して万有子は言ってみたが、それはたわんだ電線のように空中にぶらさがった。
(十)

 「まゆこ」、という名前を、「すべてを持っている子」、とつづっているのだが、彼女の人生は、どうも名前のようにいかない。むしろ、彼女は美貌にも知性にもお金にも恵まれているようだが、彼女の娘のように、「すべてに恵まれた子」と名付けたほうがよかったのではないか。しかしだけど逆説的に、ときには彼女がこの物語の登場人物のすべてを所有しているように見えることもある。女の人というのは、そういう風に考えるものだろうか。
 ところで、このすてきな小説の会話文について学びたいと思って、いくつかを読み返してみたが、おどろくほど作りものめいた会話である。この作品のなかで描かれる、絵画的な描写は、ほとんどが夢と区別のつかないような回想か、あるいはほんとうの夢の光景なのだが、あざやかなこれらの描写に比して、会話はとても説明的で、かつ、ショッキングなセリフを際立たせようという人工的な意思が見えかくれする。たとえば、「七」の、「トラごっこ」をめぐって泊の妻と万有子が対立する場面の、「エロチックな素質がおありになるのね。お宅の坊ちゃん。親ゆずりでいらっしゃるのよ」、というのはその典型だろう。なんだか少女マンガみたいだ。
 くわえて上に引用した部分、「彼女は叫んだ」、とあるが、どう考えても熱のこもったセリフとは聴こえない。そのうえに、万有子本人がおもわずくり出したショッキングなセリフも、自覚できてしまうくらいにわざとらしくて宙に浮く。ある種このブログでくりかえし使っている、「スベリ芸」のような空気になってしまうのだ。
 これをもってして大庭みな子が会話を書けない、ということは言えないだろう。たとえば、引用した部分の最初のセリフで、二回もぎこちなく繰り返される「あたしたちが」、という一人称が、恋人にミもフタもないことを言おうとして、不自然な会話にみちびくことにリアリティを与えている。いくつかの会話を読み返しているときには、これらの会話にあらわれてくるイメージをその後の物語の流れに組こもうとして、必要な部品として会話は設置されているのか、と思っていたが、またべつに「万有子」の名前のことを考えていて、こういうわざとらしい会話もありえるように思えてきた。
 ところで今回はこの泊と万有子の会話ではなくて、「トラごっこ」のところの万有子と泊の妻の会話が主題だ。飼い猫のトラのまねをするということで、飃(泊の息子)にトイレの水を飲ませたと、泊の妻が万恵子とその母である万有子を糾弾する場面。泊の妻は、飃と万恵子のふたりに、おさないころの泊と万有子のすがたを見て嫉妬し、必要以上の糾弾をするのだけれど、むしろ万有子にやりこめられる。「エロチックな素質が」云々のところは、普通に聞けば、水商売の出である自分のことを言われているのだ、と感じてもおかしくないはずなのに、妻は泊と万有子のおさない関係のほうをうたがってしまうのだ。ここのすれちがい、自分自身と別の対象が渾然としてしまうところ、がこの作品の主題であるように思える。万有子という女性は、作りものめいた会話をあやつることで、周囲の人間をすべて呑みこんでしまうのではないか、そういうふうに感じた。