21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

馳星周『沈黙の森』

カモシカでもいるのか?」
 田口は疾風の視線の先を追った。樹木を鎧代わりにした山が風雪に抗っている。空は絶え間なく降り続ける雪に塗り潰されていたが、山はまだ闇の底に沈んだままだ。枝擦れの音が苦悶の声のようだった。
 田口が歩を進めると、疾風はその速度に合わせて左横を向いた。一旦、勾配が緩やかになり、林が途切れる。十メートル四方ほどの窪地が開けた。
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 最近、マイケル・ウィンターボトムの初期作品を続けて観ているのだが、この映画監督があやつる俳優たちは、ともかく歩きながら喋る。処女作の「バタフライ・キス」は、もとよりロード・ムービーだから、歩きながら喋っても何の不思議もないのだけれど、それよりももっと歩いているのが、ケイト・ウィンスレットが出た「日陰のふたり」だ。
 原作はトマス・ハーディの19世紀小説なので、かならずしも歩く必要はなかったと思う。しかし、主人公のジュードもスーも、ともかくも歩く。彼らが止まって話すのは、セックスしたいときか、結婚したいときだけだ。その結果、最後のほうの回想シーンで、ジュードが恋人スーの姿を思い出すとき、それまでずっと動いていて魅力的に見えたケイト・ウィンスレットが、なんだかとても小賢しい女に見える、という、不思議な現象が起こる。
 さて、ぜんぜん関係ない映画の話から始めてしまったけれど、馳星周の『沈黙の森』は、なんだかとても失敗作のにおいが漂う小説だ。序盤戦は古典的な冒険小説の手法にのっとり、引退したヤクザ、田口のもとに、過去の幽霊たちが忍びよってくる。そして、「あんた、五人殺しの健だろ?」みたいな説明ゼリフが乱打され、世捨て人と化していた田口も、大金をめぐる乱戦に関わらざるを得なくなる。失敗っぽいところは他にもいろいろあって、最後のほうは『もっとも危険なゲーム』の様相を示すのだけれど、田口が圧倒的に強すぎて、ハンター役の遠山がどうしてもザコっぽく見えてしまうとか。加えて、本作唯一のどんでん返しも、初期段階で山岸というキャラクターがバレバレな感じで口にしている。
 ただ、結論としては、これだけ失敗作っぽいのに、がっつりはまりこんで最後まで読んでしまった。むろん古典古典した筋書きを、わざとあっさり潰して混沌の世界に持っていくのは、『ブルー・ローズ』以来確立された手法なのだろう。しかし、なによりもメインキャラクターである田口、遠山、刑事の安田、といったところに一切人間味がない。狂犬として造形されている遠山と、どうやら歪んだ正義感だけはありそうな安田にしても、行動原理はあるものの、そもそも肋骨が折れて内臓に刺さったり、歯を全部折られても平気で山歩きしている身体がまったく人間っぽくない。田口にいたっては、肉体は強すぎる上に、感情もまったくない。それでも読んでしまう。結局、この小説がなにを書きたかったのか、ということを考えると、この人間味の一切ない三人が山歩きする最後の150ページくらいではないのか、というところに辿りつく。
 思わず「山歩き」と書いてしまうのは、三人がかりそめのモチベーションだけを抱いて、山中で戦い続ける場面では、三人の身体がからっぽなことによって、過酷な山の状況があまり実感をもって感じられないからだ。(実際はとても過酷らしく、まともな身体性をもったヤクザや警官たちはどんどん脱落していく)。すさまじい暴力と、過酷な(であるらしい)環境が描かれているわりには、三人の身体がそれをすり抜けることによって、描かれるのがただ単なる「歩きながらの会話」に集約されていく。この会話が実にいい。意味も何にもないけど、それがいい。
 この会話がいいと思う理由は、小説のなかでどうしても好きになれない部分があって、作中で一言だけ田口が馳星周本人と化して、女性写真家に説教する場面に逆説的にあらわれる。『不夜城完結編』で劉健一が葉巻講釈をはじめる場面にも似るが、こちらは意図的な偽悪と見ることもできるけれど、この説教はひどい。ひどいけれども、つまらない小説の会話ってこれだけで構成されてるよな、と思うと、最後の山中の会話がまたひきたつのである。

(『沈黙の森』 徳間文庫、2012、原著2009)