21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

『諏訪敦絵画作品集 どうせなにもみえない』

 3月のはじめに東京出張があって、銀座のブックファーストで購入。その後、2週間くらい、じっくり浸りながら眺めていた。画集を語る能力はとてもではないが持ち合わせないので、なぜこの本を手に取り、購入するに至ったのか(端的に言えばブックファーストの陳列がよかったにすぎないのだけれど)、それを少しだけ考えてみたい。
 これは、リアリズムの現代画家、諏訪敦の画集である。表紙には、頭蓋骨を手にするヌードの女性が描かれる。やはり、ブックファーストの陳列がよかったのか、その女性に惹かれて手にとると、中には古井由吉大野一雄の肖像も描かれており、古井にいたっては小文を寄せてもいる。ああこれは私の関心の対象について描かれた物なのだと、それで購入を決めたように思っていたが、ずっと眺めているとどうもそうでもないらしい。なにしろ、古井由吉に関するページはとてもすくない。
 表紙にも使われている「どうせなにもみえない ver.5」、および、モノクロームだがもっと刺激的な「ver.4」を眺めていると、手がとても大きく見えることに気づく。むろん、手というものはひろげてみれば私の小さくはない顔ですら大半を覆うくらいに大きなもので、そこに描かれた手がとくべつ大きいというわけではないのだけれど、これら二つの絵画で、頭蓋骨をかかげる(、あるいは「ver.4」においては頭蓋骨にキスをする)両手はおおきい。力強い、とかではなく、おおきい。またしても端的に言えば、手フェチを自認する私の好みの手だった、ということが言える。これらの手は、かならずしもすごくとても美しい、というわけではないけれども、頭蓋骨をかかげる、という不自然な行為によって、不思議に拡張されて見えており、なんとなく、手をじっくり見たい、という私の欲望に合致する。
 そんな風にしてみると、古井由吉の肖像もひとつは手で顔を覆うものであるし、大野一雄も手がとても印象的に描かれている。あらためてもういちど全体を眺めわたしてみて、私は手が見たくてこの画集を手にしたのだ、と気づいた。

(『諏訪敦絵画作品集 どうせなにもみえない』 求龍堂