21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

J.G.バラード『人生の奇跡』第十八章「残虐行為展覧会」

感情、そして感情的な共感が枯れ果て、偽物がそれ特有の真正性を帯びる。わたしはさまざまな意味で傍観者であり、静かな郊外で子供を育て、子供同士のパーティーに送ってやり、校門の外で母親たちと立ち話をするのが常だった。だがそれ以外のパーティーにも通い、もっぱらウィスキー・ソーダ派だったが、マリファナも少しは吸った。さまざまな意味で、六〇年代は英国でもわたしの夢想が実現したときだった。変化の波がお互い同士を呑みこみあい、ときには変化自体が、派手な外観の下では何一つ変わっていないという真実を隠し、新たな退屈となってしまったようにも思われた。(178ページ)

 もういちどバラードの目に映ったムスタングを眺めてみるとき、やはり隔世の観があるのを感じる。『クラッシュ』の序文で、バラードは現実と虚構が入れ替わったさまを描いているが、このように「自伝」として、わかりやすい形でそれが提示されたとき、「私にとってそれは自明か?」と反問せざるを得ない。つまり、記号化された消費社会、というボードリヤール風味の口当たりのいい定義は、生まれた瞬間から物が記号であったとしたら、そこに「反転」の意味あいはないのではないか、という実感だ。このことは、ブランドに物語性を持たせようとする試みが、現在においてなんだかあまりにも空疎に響くことからも裏付けられるかも知れない。
 しかしながら、モノが記号になるのではなく、その記号が既にして記号としての斬新さを持ち得なくなった時代においても、バラードの小説作法は生きるように感じる。それは、時間軸が時間軸として機能しなくなったが故に、記号がその役割を失いつつあるからであるかも知れず、テクノロジーの偏在性が、「流行」という形ではなく、さらに探知が難しいかたちで空の見えない側に潜ってしまったからかも知れないが、とりあえず、21世紀の小説作法を考える上でも参照可能なかたちで残っているように思われるのだ。